優しい閃光

背番号2番、立ち位置は0番。わたしのいちばん

ときめきあつめ

おれのどこがよくって応援してくれてるんですか?

良くて、じゃなく、好きで、だったかもしれないけど、まあ大体そんなようなニュアンスで放たれた問いかけに、いや、まずこの単独コンサートという空間で、そんな質問をしてくる無防備さすら愛しくて好きですが。と、謎にうっすらキレたのが初日の昼公演で、今年のアリーナツアーBINGOのはじまりだった。以降、スロットマシンから飛び出てくる赤チェック衣装をとらえてから大声でハイハイ!と応えるまでの2時間半はもちろん、公演と公演のあいだの生活中にも大当たりしたマシンから噴き出るコインよろしくじゃらじゃらと溢れて止まらない好きに溺れかけながら、ときどき考えていた。どこが。優斗くんのどこがよくって。

どこって言われるとなかなかむずかしい。顔だろうと真っ先にあがる主張に、顔と答えるのであれば「どこ」よりも「どうして」や「なんで」と問われた方が問いと回答のセットしてはしっくりくるかもと諭す自分がいる。言った本人は絶対そこまで深く考えてないだろうに(あくまでも、こんなにたくさん応援してくれるひとたちがいるんだと改めて実感したこと、やっぱり不思議な感覚がずっとあるってことを伝えてくれるなかでふわっと差し込まれたワンシーンだし)。感覚としてどうしてはピンで刺した一箇所で答えられるけど、どこと聞かれると無数に散らばるひとつひとつが想起されるイメージなので、すぱっと回答を出すのがむずかしい。まず顔だし、加えて身体のバランスもスタイルも全体のシルエットもぜんぶひっくるめて見た目が世界一好きで、それからマイクの握り方とか立ち居振る舞い、客席への表情や距離感に単独公演という空間が生むちょっぴりとくべつな気やすさが感じとれるのとか、そういう愛着による愛もじゅうぶんにあって、あとは情けなさと自嘲を滲ませたかおで照れちゃってって吐露する可愛げだってそうだし、ちょけてじぶんのことをきもくね?(笑)って刺すふりをするのも、おい誰か笑っただろ!の怒るふりも、親しみやすさの裏側におなじかたちで張り付いた底知れなさと、それさえ見逃されて許される暴力的な愛嬌だって。無数を数えていけばキリがない。本末転倒にもほどがあるけど、こんな数分間の挨拶だけで大量のときめきがぽんぽん生まれてくるくらいには優斗くんがアイドルをしているだけで良いとおもうところ、好きなところが溢れてくる。もちろんパフォーマンス中だってそうで、コンサートで優斗くんを見ていると、今のそれ!それだいすき!が次々襲ってくる。予感めいてすらいるぼんやりとしたものから強い衝撃に叫びだしたくなるくらいのものまでひとつずつが特別で、予告なしのたったの一瞬が惜しくて、でもまた息つく暇もなく次の心臓をくすぐられる場面に出くわすから必死にそれらを取り逃がさないように、他のことは削ぎ落として、あえて忘れて、神経を集中させてはかき集めて、満たしていく。自分がときめきを入れるためだけの箱になるあの時間がすきだ。

 

びんご楽しかったなあと噛み締めながらそっと蓋を開けてみれば真っ先に飛び込んでくるのがDear womanの優斗くん。みずみずしい光の粒を撒き散らして、澄んだエネルギーで歌詞を体現する姿がうつっている。ゆうぴーのオタクをするうえでなんとなくサムネイル的なものがあって、これまでずっと何年もgiftだったのがびんごで更新された。スプパラでもメドレー内で歌っていたでぃあうーまんを、この時勢の中で改めて歌い届ける選択をした彼らを、この曲が好きだと言う彼らを、わたしなりに大切にしたいなとおもった。下手から登場してメインステ側の縦花に歩いてくる優斗くんの清潔で清浄な可憐さと同時に感じるステージに根を張っているかのような頼もしさ。個人的にはアイドルとしての甲斐性だととらえている。まるでただ好きな歌を好きに歌うだけみたいに喜色をにじませた優斗くんが、手を振って、踊って、笑っている。それだけの光景がどうしてこうも尊く感じられるのか。人(曲では女性に宛てているけどあえてこう書く)の持つ、自然なあるがままの美と強さを歌うよにんの声がまっすぐで澄んでいてきれいだったのもすごくよかったな。わたしってそういえばハイハイジェッツの歌声がとてもすきだった。1サビが終わって優斗くんはバクステに向かう。よにんはすでにそこにいて、手でどうぞどうぞと導かれて優斗くんが到着する。ハイハイジェッツにセンターはいないし、どこにいてもやることはおなじと言い切る優斗くんがすき。こちらもどこに立ってようがおなじだけの熱量でおなじだけの質量のすきを抱ける自信がある。大局的な視点なんて持ち合わせていないから今も昔もふさわしいふさわしくないなんてまったくわからないし、これからもその物差しをあててみる気はない。でも、それでもゆうぴーって事実としてでぃあうーまんの大サビを歌う役割のひとらしくて、あのまぶしい景色をのみこむたびに、わけもなくなみだがでそうになった。ぶーすとのアザサイでも湧いた情念だけど、こんなことされたら、ハイハイジェッツに対して張る意地すら残らないじゃんっていう。いいからはやく白旗をあげろって言われてる気分だ。わかってるよ。そりゃもうとっくに。終結なんてしていない、はじまってすらないのかもしれない。それでもまたコンサートという場所で会えた震えるほどの喜びがこの一曲に詰まっていた。必死に手持ちの光を「君」に向けて、わたしにとっての運命をくれるひとを見つめる。うたごえで、視線で、ゆびさきで、わたしやだれかを一瞬のうちに「君」にしてくれる優斗くんがすきだけど、でぃあうーまんに関してはどうしても「君」はきみなんだと言いたくてたまらない。いま優斗担のわたしにアクセスすればまずいちばんはじめに映るゆうぴーがでぃあうーまんのゆうぴー。ずるさやもどかしさすらふくめて愛おしいのがまさしくといったかんじ。固定されたワンシーンでわたしの誇りそのものが美しく無邪気に笑っている。

 

優斗くんが曲中に可能な限りの自然体を大発揮してくることのファンだから今回のソロも毎公演たのしかった。かつてのキスミスゆうぴーがだいすきだったのもあって初日イントロが流れて絶叫、ソロということに気づき故障。いつも破壊をありがとうございます。しっとりとした文学性をふくむ曲を意外にも乗りこなすとこ面白くてすきだし、ただやるんじゃなくかなり髙橋優斗ナイズして運転するからいい。ステッキを回して、ねこひげ浮かべてとろっと笑ってみせたりして、けどくちびるでは湿った恋慕を歌っているもんだから、ねえそれ本当に分かってる?って言いたくなって、すると音にあわせてほんのりとおどけたようなポーズで階段を上がったゆうぴーの笑みが引いてくその数秒間の凪に、「横断歩道を渡る途中 もいちどキスをしようよ」の声に、台詞と台詞のあいだのひと呼吸みたいに差し込まれるときどきの真剣なまなざしに。射抜かれたみたいにたちまち動けなくなる。キャッチーでキュートで飾らない。けど不意に真剣な顔をするのが心臓に悪い。キスミスやりつつ自己表現しちゃう、できちゃうのってなんかたぶんすごい。持ち前の糖度激高うたごえで胸のナイフって歌われるのかなりよかったし、ゆうぴーの難破船は引きの画で嵐の中がしょがしょ傾く船の近くに💦←がでてそうでそれもよかった。実写ではなくアニメーション。わたしはドラゴンフライでにゃまにゃま笑ってた優斗くんがほんとうにすきです。キスミスから仕入れたときめきたくさんあって、たとえばゆびで輪っかをつくってのぞきこんでいたのはゆうぴーらしさのお手本のような仕草で見つけるたび嬉しくなってた。そのとき歌詞では心覗く望遠鏡があったら素敵だねと言っているけど、優斗くんはたとえそんな望遠鏡があってもなんとなく使わなさそうでいい。これはわかりやすくわたしの中の優斗くん像。あとは君の涙に〜でほっぺをちょん、として、も一度キスをしようよ〜でつん、としていた。頬に転がる、ビー玉を小さくしたような涙の粒と、かわいくてずるい強請りが浮かぶ。ある日では「キスしたあと 突然つれないポーズだね」あたりで優斗くんがたまにやる肩をすくめるみたいな、どこかすがるみたいな、あのうごきをしていてそれはそれは大変なことだった。悲しい謎を隠して〜の「なぞ」でほんのすこしくびを傾げてみせてたのもかわいくてすきだったな。どの曲においても、こういう歌詞中の言葉や背景に気まぐれに反応してふんわりと表現してみせるときのゆうぴーのかわいさといったらない。まじりけない素直さにあふれた表出はステージを楽しんでいるにんげんの充実と多幸感を感じとれるから出会うと脳が痺れるほどの嬉しさがある。ゆうぴーが楽しそうだとうれしい。ゆうぴーが楽しそうでいうとフラミンゴだけど、フラミンゴはそもそもゆうぴーが楽しそうの前に自発的に楽しくなってたから、そのまま、楽しくてうれしい、だったな。クリエイティブに本気のおふざけができるのってデビュー組の特権なのかなって勝手に思ってたところがあったからそこをするりと飛び越えてきてくれたのが爽快だったし、ラップ詞でやっぱりこのひとってすごすぎると倒されたのも最高だった。破壊感謝。あとはとくべつ印象的だったシーンでいえば、純情うぉーあいにーのトレインで先頭になる回数に偏りがあると主張して劇画タッチになってとさわいでたとき、モニターにでっかく顔芸が抜かれるゆうぴーの目に、どこから降り注いだ照明なのかピンク色っぽい光がずーーっとひとみのなかでゆらゆらつるつる揺れててきれいすぎて。忘れられない。当の本人ずっとふざけてたけどまったくそれどころではなかった。ゆうぴーが暴れるあいだも、わたしはゆうぴーの知らないゆうぴーのきれいさを真剣に堪能。それから絶対忘れたくないゆうぴーがもうひとつ、横浜公演のクレアク。緊張感でひりついた空気、手首を回しながら花道を歩く優斗くんの覚悟が決まっていくまでの数秒間。原始の好き感情がからだの内側でぶくぶく茹だってあまりの熱さに眩暈すらした。いつだって結果よりも心意気と度胸に惹かれてここまできたし、今もそうだ。ネバストの掴み取りましょうで勢いよく装置を掴むのとか、はいはいれっっごーなうでピンスポ当たってるときも当たってないときも無敵のかおで頬の位置を高くしていたのとか、フロントラインで握り込めるてのひらだって、優斗くんの覚悟や挑戦を示している。いまはまだない手に入れたいもの。それを掴んだとき、きみはどんな顔で笑うんだろう。

 

ずっと楽しくて幸せだったびんご期間中、優斗くんのおおきな声で、はふー!と呼ばれて、あ。わたし、はふでいたいな。ふと、そうおもった日があった。ゆうぴーってもしかするとわたしたちが愛せば愛すほどに魅力的になるいきものなんじゃなかろうか。と、そんな変な錯覚をおこしてしまうくらいに、やわらかく客席を見渡すゆうぴーの光を湛えた透明なひとみ。優斗くんが美しいのは優斗くんが全力で人生をしているからだとおもうけれど、ステージと客席による交歓において、なにがそんなに優斗くんをやわらかくさせるのか。その表情を見てしまうと、へたくそなりにも信頼に値する光のひとつぶでいたいという感情になる。恥ずかしくて目を合わせられないなんて言いながら、優しいかおでファンサしてくれることを知っている。不器用なところも一生懸命取り組む姿も、数年前にそやゆとラジオでファンサについて話していたのも覚えてる。不足なんて感じたことない。

優斗くんを見てすきだなとおもう。たったこれだけのシンプルな感情の発生をもう数年間で何度も何度も繰り返してきたせいで、もはや感情をも超えて自分の一部として存在しているような感覚すらある。そこにあるのが当たり前で、けれど決して当たり前でも不変でもないのは理解していて、つまりこの好きは常に優斗くんによって保持され、わたしによって守られている。 時流が激しく畝りだしてから、なんかいうか恐ろしくなるほどにいろんなことがあって、とはいえわたしのしていることはどこまでいっても趣味であって、強がりでも冷笑でもなんでもなく言葉通りそのための人生でもそれだけの人生ではないとおもっていて、そのうえで、わたしでも優斗くんでもないおおきななにかによってわたしの好きが脅かされるというのはやっぱり悔しくてつらかった。暗澹とした気持ちが完璧には拭い去れないまま幕は開けて、スロットマシンからおっこちてくるゆうぴーの、空中にふよふよ取り残されて浮かぶ細い茶髪。軽快で派手でまぶしい景気の良い演出、魂に馴染んだエンタメ。かわいくて、たのしくて、浮かれた脳みそが心地よくて、安心して、たちまち満たされていくのがよくわかった。わたしって、どんな状況、精神でも、ハイハイジェッツのコンサートに来ればこうして楽しさを感じられるんだ。それだけのことが心から嬉しくて、希望だとおもった。

優斗くんがオーラスの挨拶で言っていたように、優斗くんには優斗くんの、わたしにはわたしの誰かには誰かの、それぞれの考えがある。それぞれの人生で、それぞれの感情の震え方がある。もどかしく思うことも嘆きたくなることもあるけど、このコンサートという空間において、たったの一瞬、ひとかけらでも、離れた場所にあるそれぞれの人生を結んで想いを共有できたら、これほどに喜ばしい奇跡はない。し、きっと叶えられていたからこそ「ようこそ」と歌われたときあんなに胸が張り裂けそうになったんだともおもう。うん。わたしずっとここに来たかったんだよーー。だいすきなアイドルに、ゆうぴーに会いたかったよ。どんなときも好きでいさせてくれて、ほんとうにありがとう。

という個人的な作用を差し引いても、おれにはおれの考えがあってと話してくれたのは純粋にうれしかったな。優斗くんらしい気遣いと責任感のある挨拶で、こちらもきちんと線を引いて不可侵でいたい気持ちを背負い直せたからよかった。教えてくれるのなら自分なりに受け取りたいし、逆に優斗くんが出さないと決めたものは最後まで深窓に保管されてほしい。あの頃と指し示される時期の話をよくしてくれてたのはなにか優斗くんの中での区切りがあったんだろうか。どんな想いでミサンガをつけて出てきたのだろうか。分からないし量れない。したくない。優斗くんは優斗くんを生きるただそれだけで、そして生き様を楽しんでみてくださいと言われてしまえば、わたしはその残虐性に怯えながらも必死に目を見開いて受けとるだけの、そういう趣味だ。目撃者でありたい。全身全霊のエンターテイメントはたとえ不文律でもレガシーを帯びていた。ひとのかたちをした覚悟がこちらを睨むように貫くとき、苦しいくらいに心がざわめくのだと、優斗くんは知っているだろうか。

 

まだOh yeah歌ってくれるんだなーハイハイジェッツって。なんだかやたらうれしかった。刹那に夢見て永遠を祈る矛盾が放つまばゆさに目が眩む一瞬のうちにすら、彼らはもっとおおきく、したたかに、美しく育っていくからほんとう、すごい。バクステから散らばってメインステで合流する動線に「あの日に戻るとしても同じ道選ぶだろう」の歌詞が重なって印象的だった。それからオーラスのあいずで落ちサビみんなで集合しよっかとなってはやめにはしみじゅそやゆとがセンステに揃うなか、さくちゃんが最後までひとりメインステ側の縦花にいて、よにんがさくちゃんを呼んで迎えて5人が完成していた光景が忘れられなくて、思い返すたびにどきどきする。横並びになって笑う5人。ぴよぴよ跳ねてるゆうぴー。めちゃくちゃよかった。ただ歌詞や歴史をなぞっていてエモいねのそれだけの良さでは絶対になくて、うまくいえないけど、わかんないけど、でもすごくいい。わたしは感情における理論武装をしてしまいがちで、だからこそ、うまく表現できない、名前をつけられない、わからないものこそ、より大事にしていきたいみたいな意識があって、あのあいずは不明瞭さすら大切にしたいものとしてどんぴしゃだった。美しくしたたかに育った彼らが、あの日に戻るとしても同じ道選ぶだろうと歌う。時は24年。さくちゃんをよにんで迎えて笑う。「俺らの“Hi”story」。伝説になるというのはすべてを物語として遺していくことでもあるのかもしれない。

 

かっこいい曲ですら、さっきまではまあかっこいい曲なのでかっこいい顔しますよそこはねーって顔で踊ってたのに、あれっいつのまにか笑っているじゃんか。たのしそうですけど、たのしいんですか?みたいなゆうぴーに出くわしたが最後、のみこまれそうになる。等身大の延長線上でアイドルがしたいひとの素直さとアイドルっていう仮面が衝突した狭間にうまれるエネルギーが大きすぎて。

オーラスのでぃあうーまん、ゆうぴーがくるんくるんとたのしげに回って笑っていた。自由さを曝けだした身軽であどけない姿に、おもわず箱の中にゆうぴーをまるごと閉じ込めたくなって、そしてたぶん、この衝動こそが問いかけに対するわたしの答えだ。派生して実るものがどれだけ鮮やかで豊かだろうと、たったひとつにすべてがあるんだ。そうだった。だから、どこがよくてって、ゆうぴーがステージでそういうふうにふるまうからで、うっかりたこやきのソースを首につけてきちゃうからで、登場してすぐ「群がれ……」なんてかっこつけたそばから多めに降ってきたお札ですっころんで、そのあとしばらく、いー……てかおで踊るから、なんですよ。これが答えですけどわかりますか。一生わからなくて大丈夫です。責任を自覚する表情すらもすきだけど、本音は無責任に笑うかおがいちばんすき。優斗くんがかわいいのが、ほんとうにすき。何回言うんだこれ。でも真実だから仕方ない。優斗くんは特別な宝物をくれるひとであり、宝物そのもの。どこがと問われればそりゃもう無数にあって、その無数の中心を辿ればたったひとりのかわいいひとが立ってることがすべてで、とびきりの運命で、誇りだから、この先もずっと優斗くんのいうところの“俺のファンの人”でいたいと願う。

おれのどこがよくって応援してくれてるんですか?

そう問うきみの目に住んでいた光の美しさをわたしは今日も眺めている。