優しい閃光

背番号2番、立ち位置は0番。わたしのいちばん

散歩がすきだ。 ゆうぴーのまねっこではなくもともとすきで、ルーティン化はせず散歩したい!の欲求が降ってきたタイミングでおもうがままに目的地もお決まりのコースもなしにすきなだけでろでろ歩く形式でたまにしてる。しゃきしゃきあるくことはあんまりない。いっつもでろでろ歩いて、なにを得るでもなく、じんわり疲れて、満足げにまただらしない姿勢で帰る。わたしは至上の酔生夢死がしたい。散歩ってこのうえなく無意味かつ生きてることそのものってかんじでだからこそたまにやるとたのしい。生きてるなーとおもえる。てことは、きょうのわたしは生きているなあと、そうおもいたかったのかもしれない。みなとみらいは快晴で真っ青な空間に鷹揚な雲が雑にのびてて平日らしい人の密度で平和そのものだった。ぴあアリを通りすぎてうろうろしてコスモワールドを外からただ眺めてうろうろして赤レンガのほうにいってもまだうろうろしてハマスタ方面に行ってまたうろうろした。まあまあうろうろしたら数日ぶりに健康的な疲労を手に入れることに成功して、うれしい。それなりの時間に眠気を感じられるのがうれしい。なのにぬるい眠気に身を任せるのがなんとも怖くなってしまい結局寝るのから逃げてほとんどあたま働いてないくせに惰性で文字をうちこんでいるあわれなにんげんがいますけどここに。かわいそう。安心できるくらいの眠気がきたら強制終了てことで。ひとりでもみなとみらいを歩くのはたのしかった。みなとみらいってわたしにとってたのしいだけの街で、ぴあアリ公演とか始球式とかあとはホテルでゆうぴーの誕生日祝ったなあとかってゆうぴーが登場するシーンはもちろんともだちと映画をみにいったなとかあそこであのメンバーでごはんたべたなとかぽろぽろと点在する思い出のどこから再生してもわたしが笑っているからすごい。ともだちと、ここにくると毎回やばいくらい笑えるなにかが起こるから絶対たのしい日にしたいってときはみなとみらい集合がいいかもよしそうしようなんて会話をしたくらい。どうせその日の帰り道も、優斗くんが関与しないところの人生をはしゃいでたのしんだあとよく優斗くんに会いたくなるというお決まりの感情の流れに沿って例に漏れず会いたいなーーと恋しんでいただろうな。どうせそう。

手足をでろでろ動かして、たのしいだけしかない街を通りすぎる。とくべつな街を歩く。うえをみたら空めっちゃ水色。水色すぎ。いや客観的にみてもバスタブいっぱいにためた感傷にからだを沈めるみたいな行為だってわかってはいて羞恥とか自嘲とかはなくもないんだけど、これって存外なんでもないつまり無意味なおこないであって、そんでもってきょうを生きることそのものにも転じるし、だってどんなときでも散歩は散歩でしかない。 

一ヶ月とちょっと前くらい、だいすきなゆうぴー担とみなとみらいをたくさん歩いてたくさん話してハマスタで試合を観た日があった。優斗くんをすきになってから、優斗くんに会うことのない夏休みは配信ライブのみだった2020年をのぞけば今年がはじめてだった。汗かくのとか日傘とか傘とかに文句を言いながらゆうぴーのはなしとかゆうぴーじゃないはなしとかをして、横浜がすきでってはなしとかもして、横浜スタジアムでは花火があがって、全能感すらおぼえるほどのたのしさに自然とだいすきなかわいいいきものをふんわりとまぶたの自分側に浮かべながら夏休みがじょうずな大人になれたらうれしいかもなんてそんなおまえだれだよみたいな感情に辿り着いて、我にかえって驚いた。数日経っても数週間経ってもやたら鮮やかにその日のことを覚えていて何度もこころが自然に反芻して浮ついてたのしくなってなんでだろうなと不思議に感じていたけどいまはわかる、優斗くんに貰ったものばかりで構成されたいちにちだったからだ。ゆうぴーの影響でとくべつに想う場所にゆうぴーのおかげで得られた交友関係、ゆうぴーが愛しているから興味を引く娯楽。ゆうぴーのせいでひっくりかえっちゃった価値観。ごまかしようのないくらいわたしの人生にそこかしこにゆうぴーがいる。にまっと人好きのかおで笑っててのひらを服の袖に収納して立っている。わたしが感知できていない部分にすらあしあとが残っている可能性すらある。わたしべつに人生あげたつもりってまったくないんですけど、あげてたっけ?そんなことないよね、なにひとつ渡せないくせに貰ってばかりで、だから困っているのに。でも求められるのがうれしいって、俺のファンの人って、ゆうぴーってアイドル、って。優斗くんのこときょうもだいすき。デートコース関連の質問は基本的におきまりのみなとみらいのゆうぴー。きょうは天気がいいからゆうぴーも散歩したかなあ。うーーからだのまんなかが痛い。じたばたしちゃうような萌えやときめきや祈りや感謝や八つ当たりはぜんぶゆうぴーの色をゆうぴーに向けることで発散してきたのにもうゆうぴー色に光るペンライトは握れない。貰ったものたちに囲まれたままうごけなくなって夢なんじゃないかとすらおもっても残像にしてはどれもはっきりとして重いのでリアルとわかる。ゆうぴーはゆうぴーの人生をわたしはわたしの人生を、同一化しない仮託しないコピーしない寄りかからないって決めてやってきたしできてたとおもうけど、いざこうなってみるとふれあわせた箇所が想定より多くて離れがたい。それ自体はもうしかたがないっぽい。

『即座に矛盾するけど、数年後別に優斗担じゃなくてもいいとすらおもう。あした優斗くんが辞めても、泣き喚きながら怒り散らかして、ああかわいい大好きだと言えるとおもう。結局、今がいちばん優斗くんが好きなのでそうなる。たとえ手放したくても手放せないこれまでも、悲しい未来も、ぜんぶこの今のためにあるんだと思えるくらい好きだから、それでいい。ぜんぶが今のために存在していてほしい。傲慢。わがままで、かわいい。』

↑これ夏の終わりに書き留めてた文章でほとんどそのままコピペしてきたんだけど当然こんなすぐ作用させるつもりはさらさらなかったから見つけて吹き飛んだ。でもいつもこういうようなことを言ってたし考えていたのは事実で大袈裟でも杞憂でも強がりでもなくほんとうに自然な感覚だった。今至上主義者の享楽人間であるうえにすきなアイドルが髙橋優斗くんだったから、まあそうなる。泣き喚いてはいても怒り散らかしてはないから未来予知失敗しててわらう。あとかつて、極論わたしにとっての唯一で確かなゆうぴーの優しさはゆうぴーがアイドルでいてくれるそのことに尽きてしまうのでそれ以外のすべてはほんとうの意味での優しさにはならない(補足   優しさというはかりにくく立場や見方でも匙加減がかわるものを慕情の理由にする才能や勇気がじぶんにはない)的なことも言っていたんだけどわたしって特技がてのひらをかえすことだけあってこの期に及んでゆうぴーの優しいとこだいすきだよなどと泣いていて、やっぱ、わらう。おろかすぎる。愚者です。でもかわいい。わがままでダサくてみっともなくてかわいい。わたしはゆうぴーのオタクやってるわたしがけっこうすきだ。

歩き回るとちゅうで喫茶店に寄り道して、すこしまえに読み返したくて本棚からだしたもののきょうまでそのままになってた本を持ってきたから読みたかったんだけどぼーっとして目がすべっちゃって結局だらだらスマホみたり音楽きいたりして過ごした。文庫本の表紙にはまるっこいタッチの夜空が描いてある。この本にもゆうぴーはでてこない。わたしが読む本にゆうぴーが登場したことはいまだかつてない。以前流れてきたツイートに影響されて考えてみたけど、ゆうぴーはわたしの本棚のどこにも存在しなかった。まあ読んでいる数がたよりなさすぎるからまだ出会えていないってだけかもしれないが、いまのところ一度も登場人物を想像する過程で「これは髙橋優斗くんだ!」と発見できず、ただ、じぶんのこころによく効くフレーズや描写をなぞったのを契機にシーンの映像化ではなく個人的な心象がスクリーンに映されるとき、世界一すきなかおが笑っていることならば幾億回あった。特に星や月を描かれると弱い。たぶんはじめにアイドルを一番星と表したひとはきっとわたしとあんまり似てないタイプのオタクだろうなともおもう。どこのだれだかしらないけどさ。

望遠鏡を通してみる夜空はきちんとトリミングされている。まるく切りとられた宇宙に、無数の星がきらめいているのだ。六百光年の距離をこえてとどくリゲルの光に圧倒されながら、僕は目をこらす。十一光年のプロキオン、五十光年のカペラ。

きらきらひかる江國香織

カメラロールの手近なとこにこの数行があった。読んでたらゆうぴーがどーもーってやってきたから忘れないように撮っておいたやつだ。わたしはリゲルもプロキオンもカペラも知らないけれど、星や天体に喩えられるような学も豊かさも優雅さもないけれど、でも、優斗くんのかおをみればいつでもだいすきだと舞い上がれる感性がある。まるで望遠鏡を覗くみたいに視界をまるくトリミングして、かおをみる。たのしげにあばれる四肢をみる。ステージと客席という六百光年を突き抜けて届く炯々とした情景に圧倒されて、目をこらす。わたしはわたしのまま、ただ星をみる。わたしと優斗くんのあいだにある知らないや分からないは瑕疵でもなんでもないのでそのまま、ひたすら、かわいさをほしいぶんほしいだけ享受して、かわいいひとがたまたま変でおもしろくてやさしくてひたむきで誠実だった事実をとうとびながら無我夢中で真実だけをあじわっているとわたしはそのうち星に願いだす。どうかかわいいままでいて。わたしにとってのかわいいひとのままでいて。星はこたえてくれた。こっちの声なんてきいてないしきこえてほしくもないが、どうしてかすべての偶然が絡まりあって叶えられている。わたしは優斗くんをみる。可能な限りの等身大を六百光年先からお届けしてくれるゆうぴーのきらめきのひとつぶずつを眺めては好き勝手につないで星座のようにしてあそんでいる。だいすきな夜空がたたんでとりあげられてしまうわけではないって、信じてもいいのかな。

ぴあアリあたりにもどってまたうろうろしてたらすっかり暗くなっていて疲れたし帰ろうかなって駅に向かいながら横見たらコスモワールドの観覧車にも星が流れてた。ゆうぴーに会いたくなった。わたしはドラマチックLOVEの世界観で生きてるからきれいなものをみるとゆうぴーに会いたくなる。ゆうぴー元気かな。元気がいいな。眠いかも。そういえばきょうはすこしだけしか泣かなかった。おやすみなさい。