優しい閃光

背番号2番、立ち位置は0番。わたしのいちばん

優しい閃光

世界が終わる日がきてしまった。この日をもってこれまでのあなたの世界はおしまいです、と告げられてから、笑えるくらい毎日が愁嘆場で、同時に、なんら変わらない日常でもあった。わたしはわたしの世界があと10日ほどで終わるとわかって涙がたくさん出てもなんだかんだでふつうに生きてしまうようで、たとえばさみしさにくらくらして正気をうしないそうになっても、突然ふっときもちが落ち着いて数分後にはもう笑って話せていたり、できるかぎり普段通りの生活をおこなって、いつもみたいにふんわり意味のないことばかりをしたり、していた。今もふんわり意味のない文を書いている。あしたにはもうアイドル髙橋優斗くんの存在する世界はないというのに呑気なものだ。きょうの21時がきたら星は崩壊をはじめる。24時には世界が消える。わたしは呑気にしている。呑気に、優斗くんをすきだと、そうおもっている。

 

連日、鏡を見るとつかれた顔をしているにんげんがいるので、へえ、とおもう。あなたゆうぴーがすきなんですね、と、おもう。白目がうすくにごっている。今まで生きてきてこんなに涙を流した経験がなかったから、たくさん泣くと白目がくすんでくるとか、泣くとけっこう疲れるんだ、とか、泣きながら爆笑するってできるんだとかを学んだ。ここ数日のわたしはおかしい。叫ぶみたいに泣いたり愛をぼそぼそ語るみたいに泣いたり、思い出をつよく抱きしめるみたいに泣いたり、逆に思い出をこんなのはいらないと癇癪を起こして投げ捨てるみたいに泣いたりしている。おかしい。けれど、実際のところ本当におかしいのはここ数日のわたしではなくて、優斗くんをすきになってからきょうまでのわたしなのかもしれない。

いてもたってもいられなくなるということが人間にはあるらしかった。もともとが惰性か衝動性かのどちらかで選択ごとを乗り切るふしはあるけれど、とりわけ優斗くんの顔をみるとおかしくならずにはいられなかった。誇張でもなんでもなく優斗くんの見た目におけるぜんぶがすきだけど、とくに輪郭がすきだ。かおだけでなくスタイルもふくめて、優斗くんの外側の線が。やわらかくてまろやかな線が過不足なくかわいく引かれていて、華やかで愛嬌に満ちたパーツのひとつひとつや体温や底知れなさをむぎゅっとおさめているのが、ステージのどこにいてもぱっと目を惹いたし、ステージの外でご機嫌にゆるんでいるときの自然に馴染んだかわいさを引き立てた。いくらでも眺めていたいそれがたのしそうに動くのが、あるいは、こちらを見渡して語りかけてくるのが、奇跡のようで、うれしくて、おかしくならずにはいられなかった。優斗くんはいつのまにかわたしのど真ん中に在るようになった。夢中ってことばはきっと優斗くんのためにあると信じたし、どんなときもどこに立っていようと、常に優斗くんのあしもとから世界がはじまって、だからそこが世界の中心なんだと疑わなかった。現場の日も、現場ではないときどきも、気温や天気や、空だって、ぜんぶが優斗くんとわたしのためにあると強気になれた。ほんとうに、おかしい。可笑しくて幸せな人生が、こんなに長く続くなんて思っていなかった。優斗くんに出会うまでのじぶんは、なにかに一定以上の熱量を保てる期間ってまあせいぜい1年くらい長くて2年ってかんじで、興味の向くままにふらふら見て回ってそのときときめいたものを手にとってみて優先順位の札をあげたりさげたりして好きにたのしんで、またふらふらして、その道中で優斗くんに出会った。かおが世界一かわいい!かおすきすぎる!かおがかわいいからもっと見たい!どうしたら見られるのかな?どこいったらいいのかな?どうしよう、ほんとうにかわいい。かおがかわいい男の子は、どうやらかお以外もかわいくて、お調子者で、笑い方が変で、えがおがまろくて、努力家で、前に進むための豪胆さと慎重さをくるくる入れ替えてつかっていた。そして、誰になんと言われようと、好き、良いと自分で価値を感じたものに対して真っ直ぐで、この男の子は自分を信じているんだなとおもった。自分を好きでいることと自分を信じることは似ているけどすこし違う。わたしも、じぶんを信じてみたくなった。それから相変わらずふらふらと気分でいくつかのものを見たり見なかったりすきになったりしたけど、気づけば優斗くんだけになっていた。まぎれもなく、優斗くんはわたしの理想そのものだった。優斗くんがわたしにとってのアイドルそのものだった。アイドルの定義はと問われれば迷うことなく髙橋優斗くんと答える。知らぬ間にわたしのど真ん中はゆうぴーに占拠されていて、好きのかたちはゆうぴーに倣って平されていった。知れば知るほどにわたしのいちばんは優斗くんしかありえなくて、たとえ諸手を挙げて肯定できないことがあっても、すべてを顔で許せることまでふくめて幸福だった。というか当たり前だけどわたしとゆうぴーって別の人間だから基本的にほとんどのことが分かり合えないし、知ることもできない。わたしはわたしの知覚を信用するしかない。だからわたしなりにゆうぴーを見てきた。これほど一生懸命になれたことはなかった。今までときめいてきたものに対して、もちろん当時のじぶんなりに真剣にすきだったとはおもうけれど、わたしの好きはすっかりゆうぴーのかたちになってしまった。じゃあきっとこれまでのなにもかもが、ゆうぴーに出会うためにあったということだろう。それに気づいたとき、優斗くん以降も、優斗くん以上も、ほしくない、そんなのいらない。と、この愛おしすぎる世界との心中を誓った。

 

その日がきょうだ。考えれば考えるだけ、よく9年もいてくれたなと感謝で胸が熱くなるし、実感を抱き直すほど、さみしくて離れがたくてどうしようもなくなる。けれど笑っていたい。泣きながらでも笑えるって教えてもらったので、どうなろうと最後には笑顔で、じゃ!と言いたい。みんな、ありがとー!!!!!って愛をぶちまけてたかお、そおやんのレスポンス前にHiHiコールをしかけてた姿、声きかせてよ、ステージから消えていくときのてのひら。首尾一貫で誠実だったゆうぴーにわたしも真っ向でいたい。わたしが会いにいくと、優斗くんはいつでも優斗くんをして待ってくれていた。そこにこみいった要素はなく、ただシンプルに、現場にいったらゆうぴーが出てくる、ゆうぴーを捉えてゆうぴーのかわいさを浴びてうれしくなって幸せで喉がひきつってペンライトを強く握りながらここに来られてよかったとおもう。おもうのに、わたしはただぼおっと優斗くんをみるだけしかできないので、せめて優斗くんは優斗くんのためだけにそこで生きていてほしいと勝手に願う。自分のもふくめ何千の勝手な願いや祈りや執着が5色の光のつぶとなって存在している空間が好きだった。

どうしてか、意志の宿ったひとみに射抜かれる心地がするときよりも、困ったみたいに眉を下げたえがおの方がわたしに有無を言わさない。よにんの間にはさまれてむにゃむにゃほろほろ相好をくずすのをみてるとたまらないきもちになった。優斗くんがたのしいならそれがいいなとおもっていた。ゆうぴーがどこに立っていてもすきだ。胸を張っていえる。そんなにつよくなくたって、そんなにあやうくなかったって、絶対にわたしはゆうぴーがすきだ。ゆうぴーがかわいいかぎりゆうぴーがすき。でも実際にゆうぴーは0番を踏んでおれたちがー!と号令をかけて、えむしーまでぶんまわしていた。すごい。焼かれるしかできない。こういうひとだからすき!というよりは、すきになったかおのひとが、なんか、すごかった。優しかった。めちゃくちゃおもしろかったって、それだけだ。それだけの幸運たちがゆうぴーの引力によってぎゅっと引き寄せられて、くっついて、とんでもないおおきさになり、いまわたしがいる世界ができている。

 

託されたもの預けられたものをも背負ってしまう甲斐性に、そりゃあスーパーヒーローだもんねと負けてしまいがちだけど、だれより自由で身軽でいてほしいのにとも切望してしまう。大矛盾。誰にも縛れない、誰にも奪えないって歌詞がゆうぴーに与えられたのを目撃したとき、代々木第一体育館でとびはねたい気持ちになった。ゆうぴーはゆうぴーが走りたい方に、信じたい光のもとに全速力で駆けているときがいちばんまぶしくてかわいい。だからぜんぜん、だいじょうぶ。いまこの瞬間もわたしにとってゆうぴーはどんなものよりまぶしくて、だれよりもかわいい。世界一幸せでいてほしい。おれは世界一幸せです!と、思えていてほしい。優斗くんがしゃべってくれる、たわいもなさ、を愛してた。優斗くんのまわりにやわらかいものがあることに安心して、こころがぬくまって、うれしくて、もっともっとやわらかさで満ちてほしいと、身の回りのことをおしえてくれるたびに、胸が軋むような小さな祈りを抱いた。無邪気さに傷つけられたことはなく、清浄な雰囲気にひと匙おとされたさみしさには甘やかな痛みを感じた。すこしの共感も、大部分を占めていた理解できなさも魅力で、優斗くんがする優斗くんの話がだいすきだった。見せてくれるなにもかもがかわいくて、見えないぜんぶがいとしかったので、わたしは優斗くんというアイドルをかなり信用していたんだとおもう。

 

上京してわりとすぐはじめてゆうぴーに会いに現場にいった。東京って優斗くんに会えるからすごい街だ!わたしが理想とする東京に、ハイハイジェッツはよく馴染んで、それがすごくすきだ。ひとが街で泣いてても、笑っていても、怒っていても、ただそれだけのことでしかないとする態度をわたしはなによりの尊重ととらえる。現場終わりにどれだけ浮かれて歩いても、感傷的に空を見上げても、すきなものをすきだと叫んでも東京はそれを許してくれている気がした。むしろ誘うようなぎらつきまであった。心地良いぞんざいさに身をゆだねてすきなだけ感情をふるわせた。ハイハイジェッツは東京がよく似合う。情けないことにあの日から泣きまくっているので家で泣いたり道端で泣いたり、泣きかけて止めたくてでも止められなくて駅のホームで一瞬うずくまったりしたけれど、だれもわたしのかなしみをとめたりはしなかった。ゆうぴーははいらじの最後、ばーいびー!と笑っていた。

今から書くことは嘘なのでもしこの怪文書を読んでいるひとがいてもなにも信じないでほしいんだけど、実は前にも一度だけ優斗くんに泣かされたことがある。 5人での初単独だった年のクリエ千秋楽、はいじぇたちがアンコでお立ち台にきたとき、ゆうぴーがだいすきだってきもちがあふれてどうしたらいいのかわからなくなって、そのままなみだとしてでてきた。アンコ前にお互い浮ついたテンションだけを理由に軽く会話した同担のおねーさんもとなりの座席で泣いてた。数分前に公演よかったですね、おわっちゃいますね、優斗くんかわいかったしかっこよかったですねくらいの会話を交わした初対面のひとと一緒に、わーっと泣きながらもふたりでがんばって前を向いてたら、優斗くんがふとこっちをみて慰めか共感かわからないようなかわいくてやさしいふしぎなかおで一回だけ頷いて、それだけしたら以降もうこちらをみることはなく、あっというまに幕は閉じた。一緒に泣いてくれたおねーさんのSNSのアカウントはきけなかった。まあこれは、嘘なんですけど。誰よりもわたしがこんなできごとは嘘だといいなと、美化され改ざんされたか、そもそもがひどい勘違いであってほしいとおもいながら、なにかがあったりなかったりするたびに、何度もあの頷きを思い出した。ゆうぴーのことなにもわからなくて、くやしくて、ぜんぶが嘘ならよくって、ずっとこの苦しみと一体化した幸せだけがあればいいとおもった。

 

ある漫画に『出会いって双方の運命の成果ですもんね』『何かを探しあてるのも見つけ出されるのも両方からひきあう力の幸せな出会いだわ』って台詞があった。わたしとゆうぴーもそうならいいな。いやきっと、ぜったい、そうだ。みなとみらいで待ってます!待ってるなら、待っててくれるならいかなくちゃ。そしたら、美容室と眉毛サロンに行きたての、ほろほろーっとわらう、運命を信じているゆうぴーが、とびきりの運命に心からありがとうと歌った。ふるえるくらいの感動だった。偶然は運命に代わり、目に飛び込んでくるすべてが幸運で、それならもう、わたしの朝も昼も夜も星も月も太陽も空も海も花もなにもかもゆうぴーじゃないかとおもった。はじめての「救われる」にひとしいできごとだった。わたしが探しあてて、ゆうぴーが見つけ出される、そのとうとさに打ち震えた体験もあって、でぃあうーまんはほんとうにとくべつな曲だ。びんごのでぃあうーまんでの優斗くんもとびきりかわいくて、心をむきだしにするみたいにおどって、うたって、笑っていた。あれをみてしまって、まだなにかほしいだなんて言えるわけないんだよ。簡単に抱えきれなくてひと苦労しちゃうくらいには、いろいろもらってきた。

優斗くんと一緒におとなになれてほんとうによかった。とてもうれしい。まるで体温を分けて貰うかのようなあたたかい人間的な変化をいくつも経験した。いつも勝手に愛すのに必死で、優斗くんが提供してくれる優斗くんを好き放題にこねくりまわしてひとりでたのしんでる気になってしまっていて、愚かである。やはり愚か者ですわたしは。飾り気なくて、まっすぐで、過不足なく与えられた愛を、どれだけきちんと受け取れていたかな。でも一方的に募らせた膨大な感情や思考も、いつかゆうぴーに破壊されるためにあったものだし、なんか、なんだったんだろう。あーもう、ほんと、なにもかもがたのしかったな。優斗くんだいすき。なにがいいたいんだろうわたしは。最後だっていうのに、なんにも意味のあることばがでてこない。優斗くんについて満足にことばを紡げたことなんて一度もない。たのしかった!だいすき!妖艶が理解できないゆうぴー、生成色がわからないゆうぴー、恋と愛のちがいもまだわかってなかったゆうぴー。俺と青春しようぜ、手とか机とか膝とか太鼓とかどこどこ叩いて爆笑、お砂糖のうたごえ、わたあめのかお、ピースサイン、まるまるこてん、わんわんわおーん!マシュマロつめこんで頬袋もちゃもちゃどらやきかぶりついてもちゃもちゃ、さみしがりやのうさぎさん、でもねこみたいで、ふくちゃんのはなしするのがかわいい、悪いものは倒してー!みたいな!諦観を得意とするひとみ、ボールとマイクと明日と未来とわたしの世界を握ってるてのひら、人好きなえがお、髙橋優斗⚾︎、ハマスタからみる花火、顔がうかぶラジオ声がきこえるブログ、水炊き豊?胸キュンレジェンドといつも長すぎ胸キュン、君は僕のリアルさ、そおやーんのもらい泣き、はじめての個人うちわ、指パッチン、愉快なヤスアキコール、ラミちゃんがうれしかったらおれもうれしいもん、クリスマスシーズンに乗ったゆりかもめ疲労でくにゃくにゃになりながらたのしさのままわらう隙だらけなかわいさ、中心にはいつも優斗がいる、萌え袖、きんぐのバックでふよふよおどる白玉みたいな子、ずんだ衣装での百花繚乱、なにこのこかわいい、このかわいい子は髙橋優斗くんっていうんだ、かわいい、かわいい!いーえっくすしあたーってどうやっていけばいいの?はじめてファンサをもらった日のこと、さいごにファンサをもらった日のこと、こっちを見て笑ってくれたたった一瞬のひとつずつは永遠なのに、永遠にも思えるわたしだけが見ていた時間こそ瞬きの間に過ぎていって、なにがほんとうだったんだろう、約8年ぜんぶ夢みたいだった、夢だった?いやそんなことない。 ぜんぶほんものでぜんぶまぼろしみたいにおもえるけど、ゆうぴーがかわいいのだけは揺るぎない真実で、わたしがいま存在していることもまた確かな証明だ。

 

優斗くんはどこへだっていけるよ。どこへだって、連れていってくれたもんね。優斗くんが散々手をひいて振り回してくれたので数時間後のわたしは優斗くんにむかってめいっぱいこの手を振れるような気がする。いままで優斗くんが指差し笑いかけてきたひとつひとつの「君」たちが君の幸福を願っていて、わたしもそのひとり。わたしにとって君は優斗くんだったし、優斗くんのいう君はわたしだった。 わたしとゆうぴーのおしまいを執りおこなっていいのはわたしかゆうぴーしかいないし、途中参加ではなくきちんとはじめから所有していたピリオドでもあるから、それを愛しいゆうぴーの手でうたれるというのは本懐といっていい。だいすきな優斗くんがだいすきまま去っていくのが壊れそうなくらいにさみしくて、それからうれしくてたまらない。すき、が欠けないまま、なにも奪われず損なわれずに死ねるのは、変わりゆく情況のなかでも変わらずいつづけてくれた優斗くんのおかげです。ありがとう。

よく言っていたように、将来はあたたかいところに住むのかな。わたしはね、将来ぜったい横浜に住みたい。まだいつそのときがくるかはわからないけど、ぜったいそうしようって、決めてるんだよ。そうすれば、わたしの未来にもきちんとゆうぴーがいる。出会ってくれたおかげで、いまゆうぴーをすきだと言えることで、この先も照らされて生きていける。永遠を願う刹那を味わい尽くしたあとは、刹那をつなげて、まぼろしでもまやかしでもない、ほんものの永遠に変えたい。それはわたしのすることだ。

 

後悔なんてひとつもない!わたしの髙橋優斗くんオタク人生は最高だった!来世でもぜったい優斗くんのオタクになりたい。またふらふらと彷徨ってる途中で人生を揺るがすときめきに出会えるのがたのしみでならないから、それまでどうか元気でね。すこやかでいてね。宇宙でいちばん幸せになってね。笑っていて。

髙橋優斗くんがだいすきです。

ありがとう。

 

もうすこしで星が砕けて、破片がそこかしこに散らばる。閃光とともにいずれ世界はなくなる。アイドルの優斗くんとアイドルの優斗くんのオタクなわたしがなくなる。けれど破片は優しいかがやきを宿したまま消えないはずだから、はじけてばらばらになった光をもてあそびながら、いつまでもいつまでも、そこで揺蕩っていたい。

散歩がすきだ。 ゆうぴーのまねっこではなくもともとすきで、ルーティン化はせず散歩したい!の欲求が降ってきたタイミングでおもうがままに目的地もお決まりのコースもなしにすきなだけでろでろ歩く形式でたまにしてる。しゃきしゃきあるくことはあんまりない。いっつもでろでろ歩いて、なにを得るでもなく、じんわり疲れて、満足げにまただらしない姿勢で帰る。わたしは至上の酔生夢死がしたい。散歩ってこのうえなく無意味かつ生きてることそのものってかんじでだからこそたまにやるとたのしい。生きてるなーとおもえる。てことは、きょうのわたしは生きているなあと、そうおもいたかったのかもしれない。みなとみらいは快晴で真っ青な空間に鷹揚な雲が雑にのびてて平日らしい人の密度で平和そのものだった。ぴあアリを通りすぎてうろうろしてコスモワールドを外からただ眺めてうろうろして赤レンガのほうにいってもまだうろうろしてハマスタ方面に行ってまたうろうろした。まあまあうろうろしたら数日ぶりに健康的な疲労を手に入れることに成功して、うれしい。それなりの時間に眠気を感じられるのがうれしい。なのにぬるい眠気に身を任せるのがなんとも怖くなってしまい結局寝るのから逃げてほとんどあたま働いてないくせに惰性で文字をうちこんでいるあわれなにんげんがいますけどここに。かわいそう。安心できるくらいの眠気がきたら強制終了てことで。ひとりでもみなとみらいを歩くのはたのしかった。みなとみらいってわたしにとってたのしいだけの街で、ぴあアリ公演とか始球式とかあとはホテルでゆうぴーの誕生日祝ったなあとかってゆうぴーが登場するシーンはもちろんともだちと映画をみにいったなとかあそこであのメンバーでごはんたべたなとかぽろぽろと点在する思い出のどこから再生してもわたしが笑っているからすごい。ともだちと、ここにくると毎回やばいくらい笑えるなにかが起こるから絶対たのしい日にしたいってときはみなとみらい集合がいいかもよしそうしようなんて会話をしたくらい。どうせその日の帰り道も、優斗くんが関与しないところの人生をはしゃいでたのしんだあとよく優斗くんに会いたくなるというお決まりの感情の流れに沿って例に漏れず会いたいなーーと恋しんでいただろうな。どうせそう。

手足をでろでろ動かして、たのしいだけしかない街を通りすぎる。とくべつな街を歩く。うえをみたら空めっちゃ水色。水色すぎ。いや客観的にみてもバスタブいっぱいにためた感傷にからだを沈めるみたいな行為だってわかってはいて羞恥とか自嘲とかはなくもないんだけど、これって存外なんでもないつまり無意味なおこないであって、そんでもってきょうを生きることそのものにも転じるし、だってどんなときでも散歩は散歩でしかない。 

一ヶ月とちょっと前くらい、だいすきなゆうぴー担とみなとみらいをたくさん歩いてたくさん話してハマスタで試合を観た日があった。優斗くんをすきになってから、優斗くんに会うことのない夏休みは配信ライブのみだった2020年をのぞけば今年がはじめてだった。汗かくのとか日傘とか傘とかに文句を言いながらゆうぴーのはなしとかゆうぴーじゃないはなしとかをして、横浜がすきでってはなしとかもして、横浜スタジアムでは花火があがって、全能感すらおぼえるほどのたのしさに自然とだいすきなかわいいいきものをふんわりとまぶたの自分側に浮かべながら夏休みがじょうずな大人になれたらうれしいかもなんてそんなおまえだれだよみたいな感情に辿り着いて、我にかえって驚いた。数日経っても数週間経ってもやたら鮮やかにその日のことを覚えていて何度もこころが自然に反芻して浮ついてたのしくなってなんでだろうなと不思議に感じていたけどいまはわかる、優斗くんに貰ったものばかりで構成されたいちにちだったからだ。ゆうぴーの影響でとくべつに想う場所にゆうぴーのおかげで得られた交友関係、ゆうぴーが愛しているから興味を引く娯楽。ゆうぴーのせいでひっくりかえっちゃった価値観。ごまかしようのないくらいわたしの人生にそこかしこにゆうぴーがいる。にまっと人好きのかおで笑っててのひらを服の袖に収納して立っている。わたしが感知できていない部分にすらあしあとが残っている可能性すらある。わたしべつに人生あげたつもりってまったくないんですけど、あげてたっけ?そんなことないよね、なにひとつ渡せないくせに貰ってばかりで、だから困っているのに。でも求められるのがうれしいって、俺のファンの人って、ゆうぴーってアイドル、って。優斗くんのこときょうもだいすき。デートコース関連の質問は基本的におきまりのみなとみらいのゆうぴー。きょうは天気がいいからゆうぴーも散歩したかなあ。うーーからだのまんなかが痛い。じたばたしちゃうような萌えやときめきや祈りや感謝や八つ当たりはぜんぶゆうぴーの色をゆうぴーに向けることで発散してきたのにもうゆうぴー色に光るペンライトは握れない。貰ったものたちに囲まれたままうごけなくなって夢なんじゃないかとすらおもっても残像にしてはどれもはっきりとして重いのでリアルとわかる。ゆうぴーはゆうぴーの人生をわたしはわたしの人生を、同一化しない仮託しないコピーしない寄りかからないって決めてやってきたしできてたとおもうけど、いざこうなってみるとふれあわせた箇所が想定より多くて離れがたい。それ自体はもうしかたがないっぽい。

『即座に矛盾するけど、数年後別に優斗担じゃなくてもいいとすらおもう。あした優斗くんが辞めても、泣き喚きながら怒り散らかして、ああかわいい大好きだと言えるとおもう。結局、今がいちばん優斗くんが好きなのでそうなる。たとえ手放したくても手放せないこれまでも、悲しい未来も、ぜんぶこの今のためにあるんだと思えるくらい好きだから、それでいい。ぜんぶが今のために存在していてほしい。傲慢。わがままで、かわいい。』

↑これ夏の終わりに書き留めてた文章でほとんどそのままコピペしてきたんだけど当然こんなすぐ作用させるつもりはさらさらなかったから見つけて吹き飛んだ。でもいつもこういうようなことを言ってたし考えていたのは事実で大袈裟でも杞憂でも強がりでもなくほんとうに自然な感覚だった。今至上主義者の享楽人間であるうえにすきなアイドルが髙橋優斗くんだったから、まあそうなる。泣き喚いてはいても怒り散らかしてはないから未来予知失敗しててわらう。あとかつて、極論わたしにとっての唯一で確かなゆうぴーの優しさはゆうぴーがアイドルでいてくれるそのことに尽きてしまうのでそれ以外のすべてはほんとうの意味での優しさにはならない(補足   優しさというはかりにくく立場や見方でも匙加減がかわるものを慕情の理由にする才能や勇気がじぶんにはない)的なことも言っていたんだけどわたしって特技がてのひらをかえすことだけあってこの期に及んでゆうぴーの優しいとこだいすきだよなどと泣いていて、やっぱ、わらう。おろかすぎる。愚者です。でもかわいい。わがままでダサくてみっともなくてかわいい。わたしはゆうぴーのオタクやってるわたしがけっこうすきだ。

歩き回るとちゅうで喫茶店に寄り道して、すこしまえに読み返したくて本棚からだしたもののきょうまでそのままになってた本を持ってきたから読みたかったんだけどぼーっとして目がすべっちゃって結局だらだらスマホみたり音楽きいたりして過ごした。文庫本の表紙にはまるっこいタッチの夜空が描いてある。この本にもゆうぴーはでてこない。わたしが読む本にゆうぴーが登場したことはいまだかつてない。以前流れてきたツイートに影響されて考えてみたけど、ゆうぴーはわたしの本棚のどこにも存在しなかった。まあ読んでいる数がたよりなさすぎるからまだ出会えていないってだけかもしれないが、いまのところ一度も登場人物を想像する過程で「これは髙橋優斗くんだ!」と発見できず、ただ、じぶんのこころによく効くフレーズや描写をなぞったのを契機にシーンの映像化ではなく個人的な心象がスクリーンに映されるとき、世界一すきなかおが笑っていることならば幾億回あった。特に星や月を描かれると弱い。たぶんはじめにアイドルを一番星と表したひとはきっとわたしとあんまり似てないタイプのオタクだろうなともおもう。どこのだれだかしらないけどさ。

望遠鏡を通してみる夜空はきちんとトリミングされている。まるく切りとられた宇宙に、無数の星がきらめいているのだ。六百光年の距離をこえてとどくリゲルの光に圧倒されながら、僕は目をこらす。十一光年のプロキオン、五十光年のカペラ。

きらきらひかる江國香織

カメラロールの手近なとこにこの数行があった。読んでたらゆうぴーがどーもーってやってきたから忘れないように撮っておいたやつだ。わたしはリゲルもプロキオンもカペラも知らないけれど、星や天体に喩えられるような学も豊かさも優雅さもないけれど、でも、優斗くんのかおをみればいつでもだいすきだと舞い上がれる感性がある。まるで望遠鏡を覗くみたいに視界をまるくトリミングして、かおをみる。たのしげにあばれる四肢をみる。ステージと客席という六百光年を突き抜けて届く炯々とした情景に圧倒されて、目をこらす。わたしはわたしのまま、ただ星をみる。わたしと優斗くんのあいだにある知らないや分からないは瑕疵でもなんでもないのでそのまま、ひたすら、かわいさをほしいぶんほしいだけ享受して、かわいいひとがたまたま変でおもしろくてやさしくてひたむきで誠実だった事実をとうとびながら無我夢中で真実だけをあじわっているとわたしはそのうち星に願いだす。どうかかわいいままでいて。わたしにとってのかわいいひとのままでいて。星はこたえてくれた。こっちの声なんてきいてないしきこえてほしくもないが、どうしてかすべての偶然が絡まりあって叶えられている。わたしは優斗くんをみる。可能な限りの等身大を六百光年先からお届けしてくれるゆうぴーのきらめきのひとつぶずつを眺めては好き勝手につないで星座のようにしてあそんでいる。だいすきな夜空がたたんでとりあげられてしまうわけではないって、信じてもいいのかな。

ぴあアリあたりにもどってまたうろうろしてたらすっかり暗くなっていて疲れたし帰ろうかなって駅に向かいながら横見たらコスモワールドの観覧車にも星が流れてた。ゆうぴーに会いたくなった。わたしはドラマチックLOVEの世界観で生きてるからきれいなものをみるとゆうぴーに会いたくなる。ゆうぴー元気かな。元気がいいな。眠いかも。そういえばきょうはすこしだけしか泣かなかった。おやすみなさい。

あたまではわかっていてもからだがおいつかないってことがあるけれど、このあいだからずっとそれのこころ版を体験していて息つく暇もない。泣いたり笑ったりをはげしく繰り返している。きっと他人からみたらその起伏の激しさになにごとかとおもうはずだし、きっと他人からみたらこんなくるしくてつらい状況で腹を抱えて笑っているのもなにごとかとおもうはずだ。おそらく今のわたしは他人を怯えさせてしまう。でもこれだけは想像上の他人に言っておきたい。くるしくてつらいけど、くるしくもつらくもないんだよ。

 

どうしてだとかなんでだとかの類いのことばは驚くほどまったく出てこなくて、悪者なんていないと信じてみる前提で近年におけるさまざまな情況を見渡しての感触であるのはそりゃあもちろん否めないけど、かといってそれが100なわけでもなく、ひたすらに、そういうこともあるか。まあ、そうだよね。とおもった。いまもおもっている。そっかあ。そうですよね。うん。中身がなんなのかはわかっていても、自分にそれをのみくだす覚悟はできていても、もうのみこんだのであろうひとたちを前にすると多少たじろぐ。のむこむよ、のみこむけどさ。絶対のみこむけどもうすこし待ってほしいかも。10日とちょっとって、本当に絶妙な「もう少し」の期間設定だ。

なんで、なんて意味のない問いだ。じゃあなんで、続けてくれていたんだろうって、それとおんなじ話だし。あるのは優斗くんがそこに9年もいてくれたってこたえだけだ。わたしはこたえだけを抱きしめていたい。なんだこの世界一顔がかわいくて世界一顔が好みの男の子は!あの少クラもあの雑誌もすべてかわいい!衝撃。衝撃。かわいい!衝撃。気づいたらふらっと辞めちゃってそう!失礼。それならいますぐ応援しないと!軽率。はじまり。そこからおおよそ8年もこの趣味が続いてそれなりに一生懸命でいられたんだから幸福すぎるといっていい。知らぬ間にわたしはゆうぴーを好きという部分だけを守ったままずいぶん変わった。動かされて溶かされて増やされてきた。わたしは優斗くんからたくさんのものを受け取ってきてそれを抱えるのに精一杯で両手があいてない、ので、すごいスピードでどこかへ走り去るゆうぴーの腕も、服の裾も、掴んで縋ることができない。それでなくてもいままで全力で駆け抜けきてひとつの後悔をももたないひとを誰もひきとめられるわけがないのはよにんのことばを受けて再三再四に思い至るところだ。夢や目標に貪欲で好奇心がつよくて頑固で、傷つくことを厭わない。ここぞというときにためらわない。どれだけ挑戦とされることでも、自分の信じる光へ走るのをやめられない。君はこういう生き方を選びとるんだね。そうか。そうなんだね。そうですよね。何度も何度も見せつけられ思い知らされいくつものさみしさとおそろしさを抱いてそれから、数えきれないほどの希望を観測してきた。そうやって進みながら、ただかわいいだけの笑顔をしてしまう優斗くんがすきだ。

つまるところ、あとののこりはわたしの問題でしかない。どうのみこむか。いつのみこむか。だいすきなアイドルが、そのまんま、わたしにぴったりはめこまれただいすきのかたちのままで去っていく。こんなに幸福なことはない。

 

じぶんとじぶん以外における起伏がまあまあまるごと苦手で忌避しているので大きく飛ぶことも転ぶこともない選択肢ばかり手にとっててきとうにへらへら生きていたら衝撃の大きすぎるできごとが起きたときの対処法がまったくわからないまま成長してしまいここ数日間ずっとあたまを抱えている。涙ってこんなに飽きもせず毎日何時間もでるもんなんだーと、ゆうぴーはいつもわたしに気づきをくれる。リアリティのないぼんやりとした終わりを感じたからこそのはじまりではあったものの、見ていくうちにずいぶん責任感がつよく、持ち前のあかるさと同居した仄昏さすらむしろ儚さのみにあてがわれていいものじゃないと気づいていった。それでも優斗くんと一緒にいるピリオドの存在感は無視できるようなものではなくて、そこにあるのが当たり前で、よく、いつかいなくなったとき、だとか、あしたいなくなっても、だとか、強がりでも冷笑でもなく、むしろ愛で染まった情念を振りかざすようにしてそういうことを思っていた。なのにいざそうなったらみっともなく毎日泣いていて情けないとかのレベルじゃない。夜泣いてから寝て朝起きて泣いて、おもしろいかおで社会にひそむのなんてべつにふつうにはずかしいしぜんぜんこんなのやりたくない。あたりまえだけど。ゆうぴーの選択がまちがえてたことなんてない。選択を正解にできるまで立ち向かえるのがゆうぴーだ。だからあとはのこりぜんぶわたしの折り合いの問題。難しいなんてことはひとつもない。ただ涙がとまらなくて、悲しくて、悲しい?悲しいのかな。まだわかっていない。かなしいって言いやすいから言ってしまいがちだけど、どちらかというとさみしいのかも。会いたい。会いたいよゆうぴー。でもどこまでもどこへでも行ってほしい。どんな場所にだって行けるよ。わたしはゆうぴーにいろいろ連れていってもらってたから分かるんだよ。引き止めないし、ここに居て行かないでとも言わない。でもせめて会いたいよって想うのだけはゆうぴーに出会ったその日からちょこちょこやっていたことだから続けさせてほしい。優斗くんに会いたいよー。会いたい。でもね、ぜったいぜったい呪いたくないんだよ。

優斗くんをとりまく世界のそこかしこを睨みつけてたくせに、ほんとうはどこの誰よりわたしがいちばん傷だらけのゆうぴーに心を乱されていた。背徳は常にわたしのうしろに張り付いていたけど前を見ればいつもゆうぴーの笑顔があった。

 

報告動画をみた。わたしのすきなゆうぴーがかおをかちこちさせてしゃべっていて、まったくもってあなた誰ですかとなれなくてわたしがもうひとりつくれるんじゃないかってくらいいっぱい泣いた。こないだからからだの先っちょがずっと冷たいのは涙に熱をすいとられているのかもしれない。訥々としゃべるとき、ことばとことばのあいだに挟まって思考が呼吸しているのがわかる。優斗くんの話し方。優斗くんのする顔。のみこむ以外になんにもないんだよなって、そうだよなーって納得した。優斗くんがなんて言おうとどう思おうと優斗くんは期待にこたえつづけてここまできたひとだし、優斗くんが届けてくれたことばが贋物だったこともないよ。よにんがくれるあかるさに照らされてとちゅうでかおをゆるめる。だれかに伝えるためのおしゃべりをする。そこにいたのは、わたしが、名前と、顔と、たったすこしのことを知っている男の子だった。みているだけでなみだとえがおがあふれてしまうだいすきな男の子。

そっかーー。

きょうも優斗くんがだいすき。てかゆーちゅーぶみて笑いすぎていい加減にしろー!ってきもちでいっぱいになった。ゆうぴーってわたしとはいはいじぇっつを笑わせるのがほんとうにじょうずだ。

 

分かってた、気づいてた、なんて優斗くんを好きでいるうえでもっとも使いたくないことばだといえる。というか実際に、もしかするとなにかしらの区切りやタイミングであるのかなあとぼんやり感じていたのみで、それはただ「ぼんやり感じていた」の域を過ぎない。じぶんのも、世界のも、過信を直視するのはいたたまれない。

伝記が一周したことでよりあたまのほうはかなり理解度が進行している。こころもまったく進んでないわけではないけどスピードの差がかなりあるので距離はどんどんとあいていく。周回遅れになる前にどうにかしたいところだ。追いつけなくなる前に。いまいちばん恐れているのが時が経ちすぎてしまうことだから。かなしみ(仮)を癒すには、結局のところ時間しかないっぽい。なんとなく時間の効力とすごさは予想できる。きっと、傷はいつか塞がるし、穴は次第に小さくなってほとんど埋まるし、涙は止まる。そういうことなんだろう。わたしはそれがどうしようもなく怖い。だいすきがだいすきだったに変わるのが怖い。今があの頃に変わるのが怖い。痛みが消えるのが怖い。あのときあんなことがあったよねって、それだけで言い表せてしまうような過去に収まってしまうのが、おそろしくてたまらない。ならばすべてを証明してくれるみたいなこの痛みが永遠になればいいのにとすらおもってまあそんなの馬鹿馬鹿しくこどもじみているとわかっているけどでもこれすらも手放したくないくらいなにも失くしたくないんだよ。

まだ涙は尽きていないし夜中に何度か目が覚めるし胃にたべものをうまく押しこめなくなった。一時的にできないことが増えている。

ここにいてと叫んで縋れたらよかった。でもそれもできない。

 

いや、感傷に浸かりすぎるのってどうしようもなく恥ずかしいものがあるよ。なんだかんだ元気に生きてるのだって立派な事実なんだから自己憐憫もほどほどにと言い聞かせてベッドから立ち上がる。くよくよするのはいいけど自己再生もセットでつけないと。からだは不健康でもこころは健康的にくるしみたい。というか嫌いになったわけでもゆうぴーに傷つけられているわけでもなくましては泣いてる時間とおなじくらい笑ってる時間もあるんだしちゃんとどちらもカウントしないと不公平だ。どんなときでもおもしろかったら声をあげて笑えるっぽくてすごい。いろんな場所で出会ったともだちが心配して連絡をくれたり、おなじはふのともだちやフォロワーと言葉を交わしあったり、そのひとつひとつの心遣いや感情の共有にわたしっていうにんげんにとってのゆうぴーの存在の大きさを自覚してこんなときだけど頬がゆるゆるする。はしもとさんをすきなおともだちが夜を徹してわたしをひとりにしないでいてくれているのにもすごくすごく支えてもらっている。たぶんこれ読んでないとおもうしまたあとで直接いうけれど、ほんとうに感謝しているからここでもありがとうって言います。ありがとうー!上に書いたなみだとえがおがちょうどおなじだけってまあまあ嘘で実際は笑いの方が勝っているまである。わたしとそのともだちは出会ってすぐのころからずっとふたりだけの面白さを共有できたけど、お互いそのときなりの守りたいものがあって抱きしめたいものがあって自分のいちばんだいすきなひとを一生懸命にすきでいたかったというのもあって悲哀を共通させるのはあの頃ではたぶんできなかった気がする。それがいまあとで思い返して爆笑がこみあげてくるくらいふたりで大泣きできるのはハイハイジェッツって箱がわたしたちにとって守りたいものの内側に入り込んじゃったからなんだろうな。なにしてくれてんだって言いたいけど昔のわたしたちの警告を振り切った現在のわたしたちがどう考えても悪いので閉口。わたしはこのできごとを決して泣いただけの思い出にしたくないので、どうにか未来地点からみても分かりやすく派手で目を引いて笑えるような期間にしたい。髪とか切ろうかなってちょっと本気でおもってる。安直人間。まあふつうに連日泣きすぎているのですでにあのときさー泣きすぎてたよねウケるねくらいの付箋は貼れてはいるんだけどね。

 

はいしかをみた。未公開映像で、雨の中、傘をさして打ち上げ花火を見上げるごにんをみてしんぞうが砕けるかとおもった。結局いちばん雨男として戦犯なのがゆうぴーなのかどうなのか、こんなかたちでこたえあわせはしたくない。雨の中で一瞬ではじけて消えるまばゆい輝きをみつめるごにんに、はじめてごにんでやったEXシアターでの公演を思い出してしまう。この夏の青春をすべて詰め込んでくださいと言われたから、せめて8月のすべてくらいはあげたいとおもったから、ローラーをぬいでごにんでくるくる円になってまわっていたから。わたしがすきなのはアイドル髙橋優斗くんなのでもっていかれないようになにかと踏ん張っていた。きっとすきになってしまうし、というかなってしまっていたので余計だったようにおもう。わたしが抱えたいのは優斗くんがくれるものだけで、そのほかはいらなかった。それでも優斗くんがさしだすもののなかにはごにんがふくまれていて、わたしはため息をついて見ないふりをしながらこっそりいくつも抱えた。それがこの結果なので、どこまでいっても自己責任でしかない。行動も、感情も、常に責任がともなう。わたしはわたしの愛憎に責任をもつ必要がある。

そこではひたすら自由がもとめられていた。自由に、自分らしくいるだけがすべてで、むしろむずかしいだろうに5人ともがそうつとめていた。後回しにしている調和もなぜか最終的にはおとずれてくるところが憎らしくて奇跡みたいだった。よく全員がうちがわを向いて歌っていた。ほかのことがすべて違っても、たったひとつ共通したなにかで繋がりあえるひとたちのステージがこのうえなくすきだった。いや、すきにさせられた、と言いたい。いまだに本気でくやしいからだ。

 

今朝、ほんとうにほんとうに最後になる手紙を出してきた。言いたいことはたくさんあって、でも伝えたいことはありがとうとだいすきのふたつしかなかったから、最後がいちばんシンプルな文面になってしまった。きょうも泣いている。まだ泣くのかよとおもう。けれど、我ながら呆れるくらい流している涙やずっと引かずに胸に居座るくるしさ、向き合わなきゃいけないさみしさ、そういうぐちゃぐちゃなきもちをすべて差し引いても、ゆうぴーに与えてもらった幸せやあたたかさがまだわたしのまわりやうちがわにあふれている。だから泣きながら笑えている。優斗くんがだいすきなわたしのままだからこそ。優斗くんがひたむきでやわらかくてあたたかくてかわいかったから。どんなときでも誠実なことばとふるまい、視線をそそいでくれたから、わたしはなにも損ねることなく後悔もなくくるしくもつらくもない様子でおしまいを執りおこなえる。変わりゆく世界のなかを変わらぬたましいのまま横断していくゆうぴーのファンですわたしは。きちんとのむこむのでまだあともうすこしはアイドルゆうぴーのファンとして生きたい。笑顔でね!

 

世界が終わる日に降り注ぐであろう特大の幸福を全力で受け止める用意と、愛しい後頭部に じゃ!!!!!とおおきく手を振れる準備運動をしていればきっと次の瞬間に君は星になっている。

⬚︎

涙って有限だと信じこんでいたけど、実際どうなのか、この身を持って検証しようとおもう。どうせなら。状況的には連日出しっぱなしなので、いまのところわたしのなかで涙は無限という説が上昇中。いつか止まるのかなこれって。そんな、ほんとうに?

朝。瞼をあけて、すぐにでもおろしたくなって、現実を見渡して覚醒を自覚し泣き崩れた。たぶんここからがはじまり。かなしみの1日目だった。いやどうだろう、果たしてかなしみなのだろうかとすらおもうけど、今考えたところでこれ以上なにも明確になるようなことはない。泣きながら家を出る準備をしたところまではよかった。前日に作り置いたお弁当を手に取った瞬間なにもかも折れてしまいそうな心地になって、ぜんぶを投げ出しそうになり、どうにかこうにか踏ん張ってとどまった。ドアを無理やりこじ開けて外出。わたしは絶対にそうしないといけなかったから、ちゃんとできてよかった。青空にとてもむかついたのでiPhoneで写真を撮った。強い日差しを浴びても頬が乾くような気配はなかったし、いつもならしたくてもできない早起きをしてしまったせいで時間を持て余していたから徒歩で出勤することにした。なにより電車に乗れる状態ではなかった。朝だというのにともだちが電話を繋いで孤独を防いでくれていたおかげで到着ギリギリまで号泣しながらとはいえまあきちんと歩けて無事辿り着けたけど、こんなときにもおはようございますが笑顔で言えてしまうじぶんに大層めちゃくちゃな感情になり、そこからの記憶があまりなく、気づいたら退勤していた。たぶん午前も午後もにんげんと対峙したときに限ってはほとんど笑えていたとおもう。巻く気力があるわけもなく適当に纏めてた髪を解いたら、手に持ってるヘアクリップはハマスタに観戦しにいくのにいいかもって買ったヘアクリップでパーソナルカラー全無視の青だし、てか服もうっかりトミーヒルフィガー着てきちゃってるし。ひとりになってすぐ燃えるように熱くなっていく目頭に危険を察知してまた歩いて帰ることにした。明るい月が視界に入ってまたiPhoneで写真を撮る。月や星を想うときはしばしばその姿がふわりとわたしの夜空に浮かんだし、優斗くんを想って見上げる空にまぶしい天体が佇んでいればそれだけで染み込むようなうれしさと幸福が満ちた。好きな作家が月や星について言葉をもちいれば、まるでわたしと優斗くんだと抱きしめた。とうぜん優斗くんは星や月じゃないから、ずっとそこにいてくれるなんてありえなくて、顔を上げれば出会える存在なんかでは、決してなくて、わたしがわたしの意思で大好きなその顔を見に行く必要があった。それはもう、ほんとうに、ほんとうに、語りきれないほど、たのしかった。優斗くんを見にいって優斗くんがいるって、もう飛び上がるほどにうれしくてとくべつな事象だった。手を引かれている気になることで、もっともっと大好きになって、夢中ってゆうぴーのためにある言葉だと信じて疑わず、連れられた場所でまばゆさに目を眇めて心を灼かれて乱されていながら、心のどこかでいつも終わりを考えていた。それはべつに常に杞憂をしているわけではなく、あくまで、優斗くんを好きなきもちに付随して存在するような、確かに付与されたピリオドは少なくともわたしにとっては自然だった。握られないで。縛られないで。おねがい。君らしくいて。と、祈ってしまう以上、いつか訪れるであろうその日を意識しないほうが無理だったといえる。その日、が、ついに定められてしまった、やってきてしまったんだと明るい月に近づいて泣いた。強がりでもなんでもなく、わたしも悔いはない。断言できます。涙が止まらない。優斗くんと自分以外の誰かに預けるわけにはいかないと必死に守り続けたピリオドは大好きな優斗くんによって打たれた。だいすきだ。優斗くんが、ゆうぴーが、わたしのアイドル髙橋優斗くんがほんとうにすき。愛してる。幸せなまま死ねるのだからこんなにありがたくて幸福なことはないよ。わたしは受け取れていたかな。受け取れていたらいいな。ほんのひとかけらでも、勝手に見て勝手に感じて貰うものが大半だったけど、にた!とねこひげをはやしたゆうぴーがよければどうぞと手渡すあたたかさを、このてのひらでしっかりと受け取れてたものがあったらいいなと、そのうちのひとつがこの確定した喪失を前にしてもどうにか生活をいとなめている自分であったら、それだけでもう、と半ば祈る心地でどうにか帰宅後は夕飯を摂った。はしもとさんの伝記を読んでまた新しい角度で理解が襲い掛かり泣く。わたしは優斗担のじぶんと愛着を飼い慣らせなかったじぶんで、ふたつの終わらせを執り行わないといけないんだった。そうでした。ゆうぴーにピリオドもってかれたせいで、いやていうか本来いっこでよかったのにわたしが絆されたせいで、じぶんで用意しなきゃいけなくなり骨が折れる。ともだちとはしゆとや優斗くんやハイハイジェッツやぜんぜん関係ないことを話しながら壊れたみたいに泣き同じくらい壊れたみたいに笑って何度も希死念慮を通じ合わせていたら時間が溶けて深夜になっていて、ああこうやって瞬きの間に10月ってくるんだなとおもわされ、電話を切って絶望と共寝。振り返ると、ゆうぴーをだいすきないちにちだった。

 

2日目。かなしみの、を省略しています。かなしみ(仮)か。これってかなしみなのかな。だれか教えてほし……くはないか。なかった。基本的にはゆうぴーとじぶんから生まれたものだけでやりくりしていきたいってきもちだけで大爆走ゆうぴーを勝手に追いかけてきたわけだからなるべく背くわけにはいかないね。ともだちにいがりくんの伝記を読んでもらい(わたしがとちゅうで脱走しないために音読してもらった)、数時間後に思い出してふたりで爆笑をするほどに夥しい、もう、夥しい以外ちょっと表せないくらい夥しく、涙を流したのがこの日だったけど、朝起きて泣きながら歩くきのうをなぞって社会に合流したことをまず先に記録。うっすら心配されながらもうっすら誤魔化して、どうにかこうにかやってたけど、ほんのすこしでも思考に隙間ができると感情やら思い出、特に思い出の方がかな、膨れ上がって、制御しきれずちょっとだけ就業中に泣くというミス。なんでこんなこといまおもいだすんだろって風景ばかり浮かんでくるから、それらが端から端までたいせつすぎるから、まあ、耐えきれなくてだめだったな。コンサート終わりに食べたごはんの味、必死に申し込みについてかんがえてた日に座ってた教室の席の位置、ともだちに出会ったときのこと。たからものなテキストが載っていた雑誌を買った本屋や、公演終わりにたのしくて帰りたくなくてただ歩き回っていた東京の街の輝き。ラジオを聴いて夜桜を撮った場所。関内駅にはじめて降りたときに得たコンサートの最寄り会場とはまた違うときめきと感動。マイクを持つゆびのかたち。声の強弱ゆるんだ襟元、比較的ぼうっとしているきみの視線の揺蕩い。星空を仰ぎ見ては会いたくなって歩いた帰り道を。こっちをみて笑ってくれた一秒の数々を。こちらだけがみつめていた膨大で長かった一瞬のできごとを。離したくないって必死になって脳が刻み直しているんだろうな。上滑りの会話でもできているだけいいよねって天気や気温などのはなしでタスク的に会話をこなそうとしたけど、そのまま季節のはなしになり、まだ暑いのに9月ももう終わりの方だもんね、きっと気がついたら10月になってるよとだれが言ったかも思い出せない発言により特大事故が起こってわたしだけがひっそりと死んだ。およそ8年間弱、優斗くん本人に傷つけられたできごとって結局たったの一度だってなかったなとこんなときにひしひし実感するのはちょっとなあ。だいすき、か。また徒歩で帰ってどうにかやることやって生活を保持して、ふたりで一生分はくだらないほど泣いて喚いて、おなじだけ笑って喉がなくなるくらい喋っていたら、だいたい6時間で体力バッテリーが警告出るくらいは減ってくるっぽいからその隙を狙って睡眠を図る不健康ルーティンがうまれつつある。ゆうぴーがすきでだいすきでだいすきなままだから涙がでる。優斗くんがこの世界から去ることでうまれてしまったかなしみを持て余すわたしのとなりにいてくれるともだちとの縁は、ともだちのすきなアイドルとわたしのすきなアイドルがたまたま偶然おなじグループに所属してくれたから結ばれたものなので、もう、話しているだけで自動的に涙がでる。ゆうぴーに泣かされるのって数年前に1回、これで2回目だけど、こんなに止まらないこともあるなんて聞いてないです。気づけばわたしの身の回りはゆうぴーがくれた縁に溢れていて、やっぱり、もらいすぎているね。ごめんねってあんまり言いたくないし、そもそもそんなの適切ではないし、だから何度でもだいすきとありがとうって言わせてほしい。ありがとう。ありがとうじゃ伝えきれないぶんはこっちで独自にだいすきに変換しちゃうからね。だいすきだよ。はしもとさんの伝記を読んだときは、はしゆとってこんなかんじなんですね、なるほどね、ってまだ新鮮な気づきすらあったのに、いがりくんの伝記にいるいがりそうやゆとはわたしが見てきたいがりそうやゆとでしかなくて、きっとそれって友と呼べるか呼べないかの関係性のちがいに直結しているものなんだろうなって。みずきさんやさくちゃんも含め、ゆうぴーと彼らがそれぞれふたり同士で築き上げた不可侵で唯一でもはや名称すらも必要ない、ふたりだけの居心地があった。もちろんごにん間でもおなじように、5人だけの居心地があった。揃って花火をしたとたのしそうに教えてくれたえむしーを忘れられない。忘れたくないよ。野外のこたつで涙をながすゆうぴーを、寒いからといって泣くゆうぴーを、ただ泣いている以上にも以下にもしなかったよにんの尊重を忘れたくないから。あしたこそ必ずご報告動画を見ようと誓った。わたしにとって月がマクガフィンでしかないまま終われていたらここまで泣かずに済んだかもしれない。でもそんなの残酷なだけだしさあ。どちらかというとわたしはゆうぴーを月の兎だとおもって見ていたところもあるしさ。なんて。振り返ると、ゆうぴーがだいすきないちにちだった。

 

0日目。

おとなになんてなりたくなかったわたしが逃れられずおとなになり、おとなになんてなってほしくなかったゆうぴーもとっくにおとなの少年だった近年、もしかしておとなになるっていいことなのかもと価値観や固定観念、植え付けられたもしくは勝手に育てた嫌悪すらじわじわとひっくり返されていく感覚があった。優斗くんと歳を重ねて、それぞれの人生を過ごしているなかでときどきお互いのいちにちが交わるコンサートという場所でその侵食はすこしずつ、たまの革新とともに、じっくりと進んだ。コンサートに行って帰ってきてお風呂に入ったらそのあとに洗濯を回して作り置きをつくる。最終の新幹線で帰宅して問題なく日常をこなして次の日もふつうに働く。ただの行動はどこかのタイミングで気づきを獲得していって、最終的に、大仰に捉えていたけれどおとなになるって生活をつつがなく営むこと、みたいなレベルでもカウントしていいっぽいなと到達した。わたしにとってはとんでもない革命で、世界がひっくり返るできごとだった。ひっくり返したのがだれなのか、わたしは痛いほどに知っていた。なんかたくさんラインが鳴いてるから気になって家事する手をとめて、見て。通知でなんとなく察してしまって、しゃがみこむ。泣けなかった。泣けないまま動けなくなって、ふらふらと情報を求めた。とりあえずなにが起きてるかは把握したけれど動画がどうしても再生できなくて、混乱状態でともだちと通話開始。いつもみたいにしてないと壊れそうなのもあったけどたぶん生来の先送り癖により本能で考えることを遠ざけようとして純粋な感情の核に辿り着けなくてとても困った。まず流れ出してもらわないと見えてこないから、じぶんでじぶんを刺しまくってみたりしたけどこの時点ではぜんぜん無理だった。クラフロ円盤みて騒いだ。いなくなるのって嘘かもとかいかないでとか言ってみたりとかして、核がどこにあったか探そうとしたけど、失敗。オタクからもそうじゃないひとからもたくさん送られてくる心配のラインみて誕生日くらいくるなって呑気におもって、それくらいわたしというひとりのにんげんにゆうぴーって埋め込まれてたんだなって、やっぱり呑気にうれしくなったりして。一度ひとりになったけどまだ泣けなくてでも更新された伝記も読めなくて、またべつのともだちにたのんで笑わせてもらってる途中で、ふと中断して作りかけのままになってるお弁当が目に入った。洗濯機ももうすぐ止まりそうだし、洗い物もあった。生活をつつがなく、営むこと。ゆうぴーをみてわたしが獲得した、わたしのなかに埋め込まれたもの。他にもたくさんの、愛おしい変化とそれをもたらしたひと。ずっと走り続けて、夢を渇望して、自分の人生のために輝いてそれをわたしたちにもわけてくれるひと。楽しんでみてくださいと、そう言ってくれた。わたしのアイドル。わたしが見つけたわたしのアイドル。髙橋優斗くんという閃光のようにきらめく優しく優れた萌え袖の男の子。なにひとつ変わらない、だいすきな。いなくなっちゃうんだね。そっか。そうなんだね。わたし、きみのことが、だいすきだよ。だった、じゃない。優斗くんがだいすき。わたしの、髙橋優斗くんのファン人生も最高ですよ。ゆうぴー。

ほとんど意地で「生活」を遂行してから、深呼吸をして、伝記をなぞった。それ以降、涙がまいにち止まらない。たとえ涙が無限であったとしてもぜんぜんいいなと現在地点ではおもっている。あしたはおもってないかもしれないから、記録としてのこしたかった。あしたのことなんてなにもわからないけど、今、この瞬間もわたしは優斗くんがだいすきだ。痛みすら愛しく離したくないほど。

 

 

 

-2日目。えむしーでおたくに花粉をはらってきたかどうなんだと問うてたとき、花粉症ゆうぴーが「きみだけのぼくらじゃない!みんなのぼくらだ!」みたいに言っていたのをなんとなく思い出して、それってとても正しいことだ。と情景のなかのゆうぴーをさすさす撫でてた。「みんな」にいれてくれてありがとうね。「ぼくら」、「ぼく」をみんなに、わたしに、たくさん見せてくれてありがとう。だいすきだよ。

優斗くんだけの優斗くんで、いてね。

ときめきあつめ

おれのどこがよくって応援してくれてるんですか?

良くて、じゃなく、好きで、だったかもしれないけど、まあ大体そんなようなニュアンスで放たれた問いかけに、いや、まずこの単独コンサートという空間で、そんな質問をしてくる無防備さすら愛しくて好きですが。と、謎にうっすらキレたのが初日の昼公演で、今年のアリーナツアーBINGOのはじまりだった。以降、スロットマシンから飛び出てくる赤チェック衣装をとらえてから大声でハイハイ!と応えるまでの2時間半はもちろん、公演と公演のあいだの生活中にも大当たりしたマシンから噴き出るコインよろしくじゃらじゃらと溢れて止まらない好きに溺れかけながら、ときどき考えていた。どこが。優斗くんのどこがよくって。

どこって言われるとなかなかむずかしい。顔だろうと真っ先にあがる主張に、顔と答えるのであれば「どこ」よりも「どうして」や「なんで」と問われた方が問いと回答のセットしてはしっくりくるかもと諭す自分がいる。言った本人は絶対そこまで深く考えてないだろうに(あくまでも、こんなにたくさん応援してくれるひとたちがいるんだと改めて実感したこと、やっぱり不思議な感覚がずっとあるってことを伝えてくれるなかでふわっと差し込まれたワンシーンだし)。感覚としてどうしてはピンで刺した一箇所で答えられるけど、どこと聞かれると無数に散らばるひとつひとつが想起されるイメージなので、すぱっと回答を出すのがむずかしい。まず顔だし、加えて身体のバランスもスタイルも全体のシルエットもぜんぶひっくるめて見た目が世界一好きで、それからマイクの握り方とか立ち居振る舞い、客席への表情や距離感に単独公演という空間が生むちょっぴりとくべつな気やすさが感じとれるのとか、そういう愛着による愛もじゅうぶんにあって、あとは情けなさと自嘲を滲ませたかおで照れちゃってって吐露する可愛げだってそうだし、ちょけてじぶんのことをきもくね?(笑)って刺すふりをするのも、おい誰か笑っただろ!の怒るふりも、親しみやすさの裏側におなじかたちで張り付いた底知れなさと、それさえ見逃されて許される暴力的な愛嬌だって。無数を数えていけばキリがない。本末転倒にもほどがあるけど、こんな数分間の挨拶だけで大量のときめきがぽんぽん生まれてくるくらいには優斗くんがアイドルをしているだけで良いとおもうところ、好きなところが溢れてくる。もちろんパフォーマンス中だってそうで、コンサートで優斗くんを見ていると、今のそれ!それだいすき!が次々襲ってくる。予感めいてすらいるぼんやりとしたものから強い衝撃に叫びだしたくなるくらいのものまでひとつずつが特別で、予告なしのたったの一瞬が惜しくて、でもまた息つく暇もなく次の心臓をくすぐられる場面に出くわすから必死にそれらを取り逃がさないように、他のことは削ぎ落として、あえて忘れて、神経を集中させてはかき集めて、満たしていく。自分がときめきを入れるためだけの箱になるあの時間がすきだ。

 

びんご楽しかったなあと噛み締めながらそっと蓋を開けてみれば真っ先に飛び込んでくるのがDear womanの優斗くん。みずみずしい光の粒を撒き散らして、澄んだエネルギーで歌詞を体現する姿がうつっている。ゆうぴーのオタクをするうえでなんとなくサムネイル的なものがあって、これまでずっと何年もgiftだったのがびんごで更新された。スプパラでもメドレー内で歌っていたでぃあうーまんを、この時勢の中で改めて歌い届ける選択をした彼らを、この曲が好きだと言う彼らを、わたしなりに大切にしたいなとおもった。下手から登場してメインステ側の縦花に歩いてくる優斗くんの清潔で清浄な可憐さと同時に感じるステージに根を張っているかのような頼もしさ。個人的にはアイドルとしての甲斐性だととらえている。まるでただ好きな歌を好きに歌うだけみたいに喜色をにじませた優斗くんが、手を振って、踊って、笑っている。それだけの光景がどうしてこうも尊く感じられるのか。人(曲では女性に宛てているけどあえてこう書く)の持つ、自然なあるがままの美と強さを歌うよにんの声がまっすぐで澄んでいてきれいだったのもすごくよかったな。わたしってそういえばハイハイジェッツの歌声がとてもすきだった。1サビが終わって優斗くんはバクステに向かう。よにんはすでにそこにいて、手でどうぞどうぞと導かれて優斗くんが到着する。ハイハイジェッツにセンターはいないし、どこにいてもやることはおなじと言い切る優斗くんがすき。こちらもどこに立ってようがおなじだけの熱量でおなじだけの質量のすきを抱ける自信がある。大局的な視点なんて持ち合わせていないから今も昔もふさわしいふさわしくないなんてまったくわからないし、これからもその物差しをあててみる気はない。でも、それでもゆうぴーって事実としてでぃあうーまんの大サビを歌う役割のひとらしくて、あのまぶしい景色をのみこむたびに、わけもなくなみだがでそうになった。ぶーすとのアザサイでも湧いた情念だけど、こんなことされたら、ハイハイジェッツに対して張る意地すら残らないじゃんっていう。いいからはやく白旗をあげろって言われてる気分だ。わかってるよ。そりゃもうとっくに。終結なんてしていない、はじまってすらないのかもしれない。それでもまたコンサートという場所で会えた震えるほどの喜びがこの一曲に詰まっていた。必死に手持ちの光を「君」に向けて、わたしにとっての運命をくれるひとを見つめる。うたごえで、視線で、ゆびさきで、わたしやだれかを一瞬のうちに「君」にしてくれる優斗くんがすきだけど、でぃあうーまんに関してはどうしても「君」はきみなんだと言いたくてたまらない。いま優斗担のわたしにアクセスすればまずいちばんはじめに映るゆうぴーがでぃあうーまんのゆうぴー。ずるさやもどかしさすらふくめて愛おしいのがまさしくといったかんじ。固定されたワンシーンでわたしの誇りそのものが美しく無邪気に笑っている。

 

優斗くんが曲中に可能な限りの自然体を大発揮してくることのファンだから今回のソロも毎公演たのしかった。かつてのキスミスゆうぴーがだいすきだったのもあって初日イントロが流れて絶叫、ソロということに気づき故障。いつも破壊をありがとうございます。しっとりとした文学性をふくむ曲を意外にも乗りこなすとこ面白くてすきだし、ただやるんじゃなくかなり髙橋優斗ナイズして運転するからいい。ステッキを回して、ねこひげ浮かべてとろっと笑ってみせたりして、けどくちびるでは湿った恋慕を歌っているもんだから、ねえそれ本当に分かってる?って言いたくなって、すると音にあわせてほんのりとおどけたようなポーズで階段を上がったゆうぴーの笑みが引いてくその数秒間の凪に、「横断歩道を渡る途中 もいちどキスをしようよ」の声に、台詞と台詞のあいだのひと呼吸みたいに差し込まれるときどきの真剣なまなざしに。射抜かれたみたいにたちまち動けなくなる。キャッチーでキュートで飾らない。けど不意に真剣な顔をするのが心臓に悪い。キスミスやりつつ自己表現しちゃう、できちゃうのってなんかたぶんすごい。持ち前の糖度激高うたごえで胸のナイフって歌われるのかなりよかったし、ゆうぴーの難破船は引きの画で嵐の中がしょがしょ傾く船の近くに💦←がでてそうでそれもよかった。実写ではなくアニメーション。わたしはドラゴンフライでにゃまにゃま笑ってた優斗くんがほんとうにすきです。キスミスから仕入れたときめきたくさんあって、たとえばゆびで輪っかをつくってのぞきこんでいたのはゆうぴーらしさのお手本のような仕草で見つけるたび嬉しくなってた。そのとき歌詞では心覗く望遠鏡があったら素敵だねと言っているけど、優斗くんはたとえそんな望遠鏡があってもなんとなく使わなさそうでいい。これはわかりやすくわたしの中の優斗くん像。あとは君の涙に〜でほっぺをちょん、として、も一度キスをしようよ〜でつん、としていた。頬に転がる、ビー玉を小さくしたような涙の粒と、かわいくてずるい強請りが浮かぶ。ある日では「キスしたあと 突然つれないポーズだね」あたりで優斗くんがたまにやる肩をすくめるみたいな、どこかすがるみたいな、あのうごきをしていてそれはそれは大変なことだった。悲しい謎を隠して〜の「なぞ」でほんのすこしくびを傾げてみせてたのもかわいくてすきだったな。どの曲においても、こういう歌詞中の言葉や背景に気まぐれに反応してふんわりと表現してみせるときのゆうぴーのかわいさといったらない。まじりけない素直さにあふれた表出はステージを楽しんでいるにんげんの充実と多幸感を感じとれるから出会うと脳が痺れるほどの嬉しさがある。ゆうぴーが楽しそうだとうれしい。ゆうぴーが楽しそうでいうとフラミンゴだけど、フラミンゴはそもそもゆうぴーが楽しそうの前に自発的に楽しくなってたから、そのまま、楽しくてうれしい、だったな。クリエイティブに本気のおふざけができるのってデビュー組の特権なのかなって勝手に思ってたところがあったからそこをするりと飛び越えてきてくれたのが爽快だったし、ラップ詞でやっぱりこのひとってすごすぎると倒されたのも最高だった。破壊感謝。あとはとくべつ印象的だったシーンでいえば、純情うぉーあいにーのトレインで先頭になる回数に偏りがあると主張して劇画タッチになってとさわいでたとき、モニターにでっかく顔芸が抜かれるゆうぴーの目に、どこから降り注いだ照明なのかピンク色っぽい光がずーーっとひとみのなかでゆらゆらつるつる揺れててきれいすぎて。忘れられない。当の本人ずっとふざけてたけどまったくそれどころではなかった。ゆうぴーが暴れるあいだも、わたしはゆうぴーの知らないゆうぴーのきれいさを真剣に堪能。それから絶対忘れたくないゆうぴーがもうひとつ、横浜公演のクレアク。緊張感でひりついた空気、手首を回しながら花道を歩く優斗くんの覚悟が決まっていくまでの数秒間。原始の好き感情がからだの内側でぶくぶく茹だってあまりの熱さに眩暈すらした。いつだって結果よりも心意気と度胸に惹かれてここまできたし、今もそうだ。ネバストの掴み取りましょうで勢いよく装置を掴むのとか、はいはいれっっごーなうでピンスポ当たってるときも当たってないときも無敵のかおで頬の位置を高くしていたのとか、フロントラインで握り込めるてのひらだって、優斗くんの覚悟や挑戦を示している。いまはまだない手に入れたいもの。それを掴んだとき、きみはどんな顔で笑うんだろう。

 

ずっと楽しくて幸せだったびんご期間中、優斗くんのおおきな声で、はふー!と呼ばれて、あ。わたし、はふでいたいな。ふと、そうおもった日があった。ゆうぴーってもしかするとわたしたちが愛せば愛すほどに魅力的になるいきものなんじゃなかろうか。と、そんな変な錯覚をおこしてしまうくらいに、やわらかく客席を見渡すゆうぴーの光を湛えた透明なひとみ。優斗くんが美しいのは優斗くんが全力で人生をしているからだとおもうけれど、ステージと客席による交歓において、なにがそんなに優斗くんをやわらかくさせるのか。その表情を見てしまうと、へたくそなりにも信頼に値する光のひとつぶでいたいという感情になる。恥ずかしくて目を合わせられないなんて言いながら、優しいかおでファンサしてくれることを知っている。不器用なところも一生懸命取り組む姿も、数年前にそやゆとラジオでファンサについて話していたのも覚えてる。不足なんて感じたことない。

優斗くんを見てすきだなとおもう。たったこれだけのシンプルな感情の発生をもう数年間で何度も何度も繰り返してきたせいで、もはや感情をも超えて自分の一部として存在しているような感覚すらある。そこにあるのが当たり前で、けれど決して当たり前でも不変でもないのは理解していて、つまりこの好きは常に優斗くんによって保持され、わたしによって守られている。 時流が激しく畝りだしてから、なんかいうか恐ろしくなるほどにいろんなことがあって、とはいえわたしのしていることはどこまでいっても趣味であって、強がりでも冷笑でもなんでもなく言葉通りそのための人生でもそれだけの人生ではないとおもっていて、そのうえで、わたしでも優斗くんでもないおおきななにかによってわたしの好きが脅かされるというのはやっぱり悔しくてつらかった。暗澹とした気持ちが完璧には拭い去れないまま幕は開けて、スロットマシンからおっこちてくるゆうぴーの、空中にふよふよ取り残されて浮かぶ細い茶髪。軽快で派手でまぶしい景気の良い演出、魂に馴染んだエンタメ。かわいくて、たのしくて、浮かれた脳みそが心地よくて、安心して、たちまち満たされていくのがよくわかった。わたしって、どんな状況、精神でも、ハイハイジェッツのコンサートに来ればこうして楽しさを感じられるんだ。それだけのことが心から嬉しくて、希望だとおもった。

優斗くんがオーラスの挨拶で言っていたように、優斗くんには優斗くんの、わたしにはわたしの誰かには誰かの、それぞれの考えがある。それぞれの人生で、それぞれの感情の震え方がある。もどかしく思うことも嘆きたくなることもあるけど、このコンサートという空間において、たったの一瞬、ひとかけらでも、離れた場所にあるそれぞれの人生を結んで想いを共有できたら、これほどに喜ばしい奇跡はない。し、きっと叶えられていたからこそ「ようこそ」と歌われたときあんなに胸が張り裂けそうになったんだともおもう。うん。わたしずっとここに来たかったんだよーー。だいすきなアイドルに、ゆうぴーに会いたかったよ。どんなときも好きでいさせてくれて、ほんとうにありがとう。

という個人的な作用を差し引いても、おれにはおれの考えがあってと話してくれたのは純粋にうれしかったな。優斗くんらしい気遣いと責任感のある挨拶で、こちらもきちんと線を引いて不可侵でいたい気持ちを背負い直せたからよかった。教えてくれるのなら自分なりに受け取りたいし、逆に優斗くんが出さないと決めたものは最後まで深窓に保管されてほしい。あの頃と指し示される時期の話をよくしてくれてたのはなにか優斗くんの中での区切りがあったんだろうか。どんな想いでミサンガをつけて出てきたのだろうか。分からないし量れない。したくない。優斗くんは優斗くんを生きるただそれだけで、そして生き様を楽しんでみてくださいと言われてしまえば、わたしはその残虐性に怯えながらも必死に目を見開いて受けとるだけの、そういう趣味だ。目撃者でありたい。全身全霊のエンターテイメントはたとえ不文律でもレガシーを帯びていた。ひとのかたちをした覚悟がこちらを睨むように貫くとき、苦しいくらいに心がざわめくのだと、優斗くんは知っているだろうか。

 

まだOh yeah歌ってくれるんだなーハイハイジェッツって。なんだかやたらうれしかった。刹那に夢見て永遠を祈る矛盾が放つまばゆさに目が眩む一瞬のうちにすら、彼らはもっとおおきく、したたかに、美しく育っていくからほんとう、すごい。バクステから散らばってメインステで合流する動線に「あの日に戻るとしても同じ道選ぶだろう」の歌詞が重なって印象的だった。それからオーラスのあいずで落ちサビみんなで集合しよっかとなってはやめにはしみじゅそやゆとがセンステに揃うなか、さくちゃんが最後までひとりメインステ側の縦花にいて、よにんがさくちゃんを呼んで迎えて5人が完成していた光景が忘れられなくて、思い返すたびにどきどきする。横並びになって笑う5人。ぴよぴよ跳ねてるゆうぴー。めちゃくちゃよかった。ただ歌詞や歴史をなぞっていてエモいねのそれだけの良さでは絶対になくて、うまくいえないけど、わかんないけど、でもすごくいい。わたしは感情における理論武装をしてしまいがちで、だからこそ、うまく表現できない、名前をつけられない、わからないものこそ、より大事にしていきたいみたいな意識があって、あのあいずは不明瞭さすら大切にしたいものとしてどんぴしゃだった。美しくしたたかに育った彼らが、あの日に戻るとしても同じ道選ぶだろうと歌う。時は24年。さくちゃんをよにんで迎えて笑う。「俺らの“Hi”story」。伝説になるというのはすべてを物語として遺していくことでもあるのかもしれない。

 

かっこいい曲ですら、さっきまではまあかっこいい曲なのでかっこいい顔しますよそこはねーって顔で踊ってたのに、あれっいつのまにか笑っているじゃんか。たのしそうですけど、たのしいんですか?みたいなゆうぴーに出くわしたが最後、のみこまれそうになる。等身大の延長線上でアイドルがしたいひとの素直さとアイドルっていう仮面が衝突した狭間にうまれるエネルギーが大きすぎて。

オーラスのでぃあうーまん、ゆうぴーがくるんくるんとたのしげに回って笑っていた。自由さを曝けだした身軽であどけない姿に、おもわず箱の中にゆうぴーをまるごと閉じ込めたくなって、そしてたぶん、この衝動こそが問いかけに対するわたしの答えだ。派生して実るものがどれだけ鮮やかで豊かだろうと、たったひとつにすべてがあるんだ。そうだった。だから、どこがよくてって、ゆうぴーがステージでそういうふうにふるまうからで、うっかりたこやきのソースを首につけてきちゃうからで、登場してすぐ「群がれ……」なんてかっこつけたそばから多めに降ってきたお札ですっころんで、そのあとしばらく、いー……てかおで踊るから、なんですよ。これが答えですけどわかりますか。一生わからなくて大丈夫です。責任を自覚する表情すらもすきだけど、本音は無責任に笑うかおがいちばんすき。優斗くんがかわいいのが、ほんとうにすき。何回言うんだこれ。でも真実だから仕方ない。優斗くんは特別な宝物をくれるひとであり、宝物そのもの。どこがと問われればそりゃもう無数にあって、その無数の中心を辿ればたったひとりのかわいいひとが立ってることがすべてで、とびきりの運命で、誇りだから、この先もずっと優斗くんのいうところの“俺のファンの人”でいたいと願う。

おれのどこがよくって応援してくれてるんですか?

そう問うきみの目に住んでいた光の美しさをわたしは今日も眺めている。

きみが月を冴えさせる

優斗くんが24歳になる前日、伝記が更新された。あと数時間後には多くの祝福を贈られるであろう当の本人が「全然気づかなかった笑」と見慣れた改行の中であっけらかんと笑っていて、視線で文章をなぞりながら、共感とらしさ、ふたつのわかるなあが浮かんだ。そういうものだよね、と身近な感覚に頷きながら、優斗くんってほんとそうだよねって呆れて笑いたいきもち。優斗くんを観察していると常に、きみってほんとそう、と、そんなことあるんだ?   の連続。いつもよりすこしボリュームのある文章をご馳走を食べるときみたいにわざとゆっくり読んだ。まっすぐと、なんでもないように、嫌味なく届けられる飾り気ない言葉のひとひらずつにあたたかな体温と意志が宿っている。根はかなりのマイペースで頑固なところもあるけれど、身軽で自由なひとりしゃべりや結果としてどこかのだれかに刺さればいいというような無法な話し方は結局あんまりしない(できない?)のも引力のうちのひとかけらだ。読み進めるうちにスマホを握りしめていたのは、コンサートでの挨拶のとき白く光るペンライトを握る手が無意識に力をこめるのとたぶん同じだった。きみってほんとそうだよね、のあとの、そんなことある?   のターン。好きだ。とっても。どうしよう、やばいかも。大好きだ!   衝動的にほとんど書き終わっていたブログの全文を消した。そしてすこしして、今これを新しくうちこんでいる。なんでかって、正直理由らしい理由はなくて、というか優斗くんを好きなじぶんってわりといつもこんなかんじ。とつぜんこちら側を正面にとらえた優斗くんに焼かれるように照らされると、すべてをいちからはじめてみたくなる。なめらかに研がれた心意気に貫かれるたび、張り合ったことなんて一度もないのに、どうしてか、勝てない、が一番近いように思う情感に襲われるし、目を細めてしまうくらいのまばゆさと、次に目を開けたときに世界が変わっている感覚が心地よくて好き。挑戦し続けてきた人間にしか咲かない華やかさは人の足を止めて耳を傾けさせるし、ひたむきさは人を動かす。素直さに世界をひっくり返される。自分の一部を塗り替えられることがこんなにも清々しくて尊いものなのだとわたしは優斗くんに出会ってはじめて知った。

なので、編集オプションで投稿日を変えているけれど、ほんとうは表示された日にちよりもあとに書いた文章だ。まあ、そういうことがあっても良い。おたくがアイドルの誕生日に書くブログなんて自らつけたタイトルよりも日付のほうが重要であり、もはやそちらが題名のようなものだ。ところでおたくそれぞれに一生忘れられない特別な4桁の数字が存在するのだとおもうと面白いような愛おしいようなきもちになる。好きなひと、好きだったひとの誕生日って知ったそのときからずっとわすれられないのなんなんだろう。

出会ってよかったって思える人しかいない、のあとのH・A・Fの文字。飽き性な彼らが、意外にも使い続けているわたしたちを表す固有名詞。これからたくさんのありがとうとおめでとうを向けられる優斗くんが一足早く綴ったわたしたちへのありがとう。感極まるより先に、ずるいよってちょっと笑ってしまったことをここに残しておきたい。ありがとうなんてこちらが言いたいのに。誕生日に限らずいつだって言いたい。ありがとうとだいすきはどれだけ言っても満足することないし、たとえばわたしだって優斗くんに『君が君でいることがとても美しい』って大きな声で伝えてみたい。『君こそ我が誇り』なんだよってうたってみたい。優斗くんがただ、優斗くんであることを、優斗くん自身も周りも忘れないでいてほしいし、わたしもどんなときも忘れたくないよ。ぜんぶこっちのせりふなんだけどな。それでも歌うのは優斗くんでわたしはいつもあまやかに笑いかけられるだけ。アイドルってずるい。アイドルって、いいなあ。

 

伝説になると語った夏も、あるいは最速でと野心を見せた夏も、ステージの上で強気でいられる人間が好きな自分にとってどちらもひどくあつい夏だった。それがアイドルをアイドルたらしめているとさえ感じる。虚勢を張って理想を宣って、そうあろうとする人間にだけそうなれる権利があると思っているし、させてくれるのがステージであってほしいと信じている。あれから数年が経って今年のコンサートでの挨拶は少し変わっていたような、気がする。落ち着いたとか丸くなったとか、そういうのではなくて、根幹は揺らいでいなくともどことなくおだやかになった。抱く感情を大切に、けれど振り回されすぎず、とぎすまされた怜悧さで今この瞬間にもきちんと目線を向ける冷静なぎらつき。これもまた大人になったということなのだろうとぼんやり思った。夏はまた今年も性懲りも無くあつかった。この事務所に入ってから大人でいなくてはいけない場面がいくつもあった優斗くんを数字上の年齢で大人か子どもかとはっきり線で分けるのは不可能で、かつてはそのことにやきもきしたり寂しさを感じることもままあったというのに、優斗くんがたくましく長ずるにつれいつしかそのもどかしさもほとんど波立たなくなったのも感慨深い。ただ、どれだけ立派になっても、まろいラインで描かれた横顔が時たまむしょうに切なくなるくらい大人びても、優斗くんは知らない人の顔では笑わない。少なくともわたしに見えている優斗くんはそうだ。優斗くんってつくづく不思議だ。不思議すぎて、優斗くん以外の誰にも髙橋優斗くんというアイドルを詳らかにしてほしくない。どれだけ時間をかけてどれだけ眼や耳や脳みそを使ってどれだけ言葉を尽くしても雲を掴むような手触りで、なのに握りしめた雲にすら愛着が湧いてくるような、そういう、かわいらしくて愛しいいきもの。必死にばかみたいに紆余曲折なんやかんやとやって、最終的にうーんやっぱりわかんないなあに辿り着きたい。わたしにとってゆうぴーって何歳になってもそういう存在なのかもしれない。

 

なんとなくふわっと優斗くんおたくとしての今年の一曲、的なものが各年にある。23歳の優斗くんを思い返せば流れるのは『Fantastic Ride』だ。アリツアで披露していた曲。ふぁんたらをにこやかに歌い踊る優斗くんのいる世界は、満天の星の光ときらびやかなイルミネーションが共存する夜の遊園地みたいなイメージ。紺色の上にたっぷり星をしきつめた夜空も、煌々と光を放つシャンデリアもイルミネーションも、とびきりおおきくって明るい月も、宝石だって、きみがほしいならぜんぶそこに存在させてもいいんじゃない。そういう風な、こども時代に夢みた浪漫を大人だからできる贅沢でかなえるファンタジー。で、それを許す器量と秘密を共有してくれるずるさが非常におとなっぽく、とはいえ本人も楽しさを隠せずに無邪気に笑っているような。ふぁんたらの優斗くんを見ながら、大人になるっていいなってかみしめていた。素敵なことなんだなって。今でも忘れられない最高の景色だった。

 

自分すらも対象に世界を変えてしまえる側のひとだって散々分からされてきた。野球よりも熱中できるものに出会えた。世界が変わりましたね。そうかー、そうなんですね。ありがとうもよかったとも言えない。後悔の色があまりにもちらつかないから、その強さとさみしさがほんとうに好きでどうしようもなくて苦しくなる。生き様を楽しませることが優斗くんのアイドル観であるのなら、よりいっそうこういう堂々とした振る舞いや甲斐性に甘えないようにしなければいけないとおもう。かつて「毎日全力で最後に後悔しないで終われるような」と、台詞に落とし込んで言っていたね。今までもこれからも選択の連続なんだろう。選ぶことは選ばないこと。手にする代わりになにかを捨てていく。削ぎ落とす。切り売りして、別れて、そこに立っている。リアルタイムには決して見せなくたって痛痒を感じないわけじゃないのはそれこそ痛いほど知っている。そんな優斗くんの中にあるさみしさのおかげでわたしは優斗くんの元気で無敵なところをみつけて応援できるわけだ。選択を無駄にしないよう納得できるまで奮闘してそうしてさみしさすら乗り越えた優斗くんを、優斗くんはわたしたちに提供してくれる。それってびっくりするくらいにんげん。わたしはアイドルでヒーローであろうとしているにんげんを応援している。夏が好きな優斗くんは、生まれた季節がよく似合うとおもう。秋の心とかいて愁い。

じゅうぶん幸せだった生活で内面化された部分がアイドルとしての優斗くんを輝かせている。 優斗くんは朝を知っている。朝の刺すような光とくるしさも知っていて、 眠らない遊園地の楽しさとものがなしさものみこんでいる。優斗くんというアイドルは朝と昼と夜、毎分毎秒くるくる切り替わって、小気味よいリズムとバランスで成り立っている。豪快な笑い声で目を覚させて、なにげない人差し指が夜のスイッチを押す。優斗くんを想って見上げる夜空に月が浮かんでいる日はいつも嬉しい。きっと月にだって行けるよ。いつかね。

 

食べられるときに食べて、眠れそうなときには眠って、笑いたいときに、すきなだけ笑ってほしいと、いつも願っています。そんな単純なことすら、ひとつひとつが難しいところで生きてるんだろうけど、やっぱり、どんな日もなるべくすこやかでいてほしいな。生まれてきてくれてありがとう。 こちらこそ、出会ってくれてありがとう。ありがとうをくれてありがとう。これからもの五文字が輝いて、明日からの道が光で白んで照らされるのがすごい。やっぱり、永遠より、一生より、照らされて覚悟するこの一瞬の一個ずつのためにおたくやってるなって思ってしまうくらいに。24歳の生き様も最高に滾って輝いてみせてね。あなたのことが本当にだいすきです。お誕生日おめでとう。

ジャメヴな逃避行

狭い檻の中、赤い囚人服を萌え袖にした男の子は不自由を指折り数える。お祭り、海、恋。牢獄の中にいては、夏を夏だと感じられるすべもない。ここにいたままはできないことを数えたのち、徐に見慣れた仕草で指を鳴らした。

「そうだ、脱獄しよう」

 

毎年必ず過ごしているはずなのに、迎えるたびにその暑さに新鮮に絶望する。暑いのも日焼けも汗をかくのもいやで、水分をとるのも下手で、日差しでスマホの画面が見えにくいし日傘で片手が塞がるのが煩わしい。なにより、ただ生きるだけにも普段よりエネルギーが必要になるかんじが嫌い。だからたとえどこかへ囚われていなくたってお祭りに積極的に行くことはないし、看守ふたりに監視されていなくとも海には滅多に行かない。けど、好きなアイドルには会いに行きたい。夏が大嫌いなわたしの大好きなアイドルは夏が大好きだった。

アリーナコンサートは今回で三度目。けど夏にやるのははじめて。季節ごとにはじめてという特別をつくれるから、四季があるって素晴らしい。今回の優斗くんのソロが前々からやりたいと教えてくれていた真夏の脱獄者だったのも、素晴らしい。2023年の夏、23歳の髙橋優斗くんの演る真夏の脱獄者。一見まっすぐでとっつきやすい、わかりやすいパッケージに思われがちなのかもしれないけど、その実、複雑な多色性をもって人の目にうつる優斗くんの持つ生来の掴みどころのなさが作り出す自由で勝手気ままな甘い逃避行は、差し伸べられた手を握って身を預けたくなる頼り甲斐もあれば、ときたま覗くかろやかな色っぽさと表裏一体のあどけなさに、捕まえたい、このかわいくてずるい男の子を逃したくないなんて焦燥にも近い気持ちすら掻き立てられる。優斗くんがやりたがっていた優斗くんの好きな曲で押し広げられる世界に入り込みながら、すごい!!ゆうぴーがわたしの大好きなゆうぴーをしてる!!の気持ちで心がひたひたになって利府で溺れた初日。いつもそうだけど、優斗くんが提供してくれる優斗くんにハズレがないの、幸せなことすぎて理解に時間がかかる。わたしは優斗くんがかわいいから好きだ。優斗くんがかわいいかぎり、ずっと優斗くんのことが好きだ。

ステージを飛び跳ねるように逃げては、おとなびた甲斐性の中に見せるこどもっぽい表情がひとの心をいたずらにくすぐる。その心地良いアンバランスさは優斗くんのいくつもある大きな魅力のひとつだし、人間としての自己表現とアイドルとしての自己理解のバランスの良さが現れているステージだなとも思った。たっぷりの自然なかわいげにひと匙の隙を浮かべてやさしく溶かして、ずっとそばに居てくれるようにも、次の瞬間に忽然と思い出に消えてしまうようにも感じられる佇まい。すこし熟れすぎた果物みたいな、しぼんでちいさくなったわたあめみたいな、甘ったるさが凝縮されたうたごえが発揮されていてかわいい。曲本編より長い前振りのコントも、終わりでこどもたちをころがして笑う無邪気さも、一つ一つがらしくてかわいい。優斗くんがかわいいままに大人になってくれていること、本当にうれしくて泣きそうになる。かわいさに温度があるのなら、優斗くんのかわいさは限りなく人肌に近いのだろう。かわいくて大好きなアイドルから、そんなふうに「最高の夏に背を向けないで。早く今を生きて」なんて歌われたらどうしようもなくなってしまう。かくして、今年の夏の主題が決定づけられた。

アリーナで見る夏の優斗くんは最高の一言に尽きた。夏が暑いのを毎年忘れてその熱気に驚くように、優斗くんの顔が好きすぎることに現場のたびに驚き感動するオタクという生き物。夏のアリーナははじめてだったけれど、もうひとつはじめてがあった。アリーナ規模でははじめてかつ、およそ4年ぶりになる単独現場での声出し。本人たちもオタクも待ち望んでいたその一手は開演前の演出からはじまっていた。こういうとき、優斗くんの声でホスピタリティの単語がよく再生される。彼らのことを好きなひとたちの声が大きな会場にこだまして、うれしそうな顔がうれしくて、何度も涙がこぼれおちそうになった。特に、はいじぇのコーレスタイムで膝に手をついて重心低くした姿勢で声を聞いてくれるシルエット、もっともっとと煽る手のひら、恒例のさんきゅ!を浴びたときに、長かった4年間を想ってぐっときた。さんきゅ!かわいい顔でかわいいお礼を言って間も無くローラーをかっ飛ばしてエネルギッシュに外周に飛び出していく優斗くんは、4年たっても変わらず声を力に変換できるひとだった。持ち前の胆力や訴求力はもちろん、なにかに背中を押されることができるのものひとつの才能だ。スーパーヒーローの素質。

ヒーローといえば、2曲目のアザサイ。動線にここまでときめくのってローラーならではなのかもしれないなってしみじみ感じた。特に、バクステからセンステに先にひとり向かうところ。強気に佇む優斗くんの足元をゼロに世界の中心がはじまってゆくようで、とにかくすごかった。バクステに背を向けたまま人差し指を突き立てる。ゆっくりと握りこめたその手の中には、目には見えない無数のエネルギーが存在していた。優斗くんのハンドサインは、暗澹たる道を照らす光にも、脱獄への魅惑の誘いにもなり得る。日々だれかのなにかになっているこの手のひらが、いつか絶対に望むものすべてを掴んでくれないと困るな、と祈りながら視線を向けた。そうやってわたしやだれかから奪った視線や感情をバクステに向けたまんまの背中にしょって、楽しんで強がって力に変えて、世界の中心を蹴っ飛ばして笑顔で車輪を回すのがヒーローのお仕事なのかもしれない。あと、4人が合流する流れをもって無敵の顔をしていた気がするのもよかった。しばしば自分自身以外から自信を見つけて内側に宿す瞬間をみるたび、生まれながらのヒーローではなく、ヒーローであろうとする男の子が好きなのだと実感する。ゆうぴーはアイドルでスーパーヒーローで人の子。そんな優斗くんのこと、ずっとずっと大切に好きでいたい。これまでそうしてきたように、これからもずっと。

これまでも、これからも。最高の今にあてられて過去と未来に思いを馳せる瞬間がいくつもあったコンサートだった。ぴかぴかでスライドショーされていたいくらなんでも大切すぎる写真たちを見て、すべては地続きなのを改めて実感させられた。いくら時が過ぎても本当に消えてなくなっちゃうものなんてなくて、実は、大切に好きでいたものは、自分が守り続けるかぎり消えなかったりするのかもしれない。この演出を思いついて実行まで持ってくるあたり、彼らも彼らなりにこれまでを大事にしてくれているのがわかってうれしかった。「根拠なんてどこにもないけど無条件に」って、すごくHiHi Jetsだ。この5人でいると自信が湧く、なんでかわかんないけどって、いつかの優斗くんも言っていたね。かつてのじぇっつは、これからも俺たちのことずーっと愛してくれますか!って、わたしたちが肯定でしか返せないのを逆手にとって聞いてくる小狡くてわがままで不安定で切ないくらいに愛おしいこどもたちだったけれど、今おこなわれる彼らからの問いかけとオタクの返事は、愛情はそのままに数年前とはすこし違う意味合いや空気感があって、待ち焦がれたレスポンスを終えて完全に幕が降りたあとのアリーナはやたら不思議な壮麗さがあった。

「おれの職業はおまえを幸せにすることだ!」←突然ですがこれは大好きが大暴れしてもがき苦しんだとある日のだぁどらセリフです。何を隠そうわたしの趣味は優斗くんで幸せになることなので……。幸せと幸せの重なり合いに、こんなアイドル一直線セリフが好きなアイドルの口から飛び出したことふくめて大好きが爆発した。優斗くんを好きになってからまあまあそれなりの年月が経ったけれど、どれだけ季節を過ごしても好きが重なり続けるばかりで、もう、以上も以降もいらないな、というところまできた。たとえ優斗くん以上がこの世界にいたとしても、優斗くん以上の思い出はほしくないかなーと思うからです。もしかすると、わたしはゆうぴーだけに巡り合うために、わざわざオタク気質にうまれて、いろんなもの、ひとを好きになって、そうした紆余曲折を経て自分にとってのど真ん中の最適解の大本命に出会えたのかもしれない。そんな馬鹿馬鹿しいことを本気で考えながら、先程のセリフのおかげでしばらくやぶけたままだった心臓を縫い付けるような心地でその日は君だけにを聴いた。そして優斗くんのやわらかで清冽な雰囲気はわたしを惑わせるから、馬鹿馬鹿しいけれどやっぱり絶対そうだよなー、というところに帰結した。そうだといいな。

イカの汁をオタクにかけて、オタクを煽る顔がうざくて、ひとりでレイを頭にぬーっとかぶって、オタクの声を聞いてうれしそうに笑うのがかわいい。ぜんぶかわいい。夏曲メドレーの担当もスイカ割りの発案も優斗くんらしい、夏が好きすぎる。まったく相容れないけどかわいい。「夜が明けるまで この手離さないで」そう歌って地球さえ簡単に抜け出して宇宙へと連れていってくれる今年の夏の優斗くんは、捕まってしまうのも納得なくらい罪作りにかわいかった。檻からするりと逃げ出す優斗くんを捕らえるみたいに、あるいはその手をとって一緒に逃げ出すみたいに、これからもかわいいひとを追っかけていろんな場所でかわいい!って叫びたいし、少しだけ大人になった愛おしい問いかけに、大きな声でハイハイ!って応えたいし、なにより、まずは城ホで優斗くんの顔がよすぎることに驚いて叫びたい。しおりを挟んだ夏の続きがいつかできたらうれしいね。

 

アリツアのぴかぴかで見たスライドショーが記憶に新しいうちにイレギュラー的に呼ばれた六本木の屋上は懐かしくも新鮮で、そんなEXシアターで見る夏の優斗くんはなんとも最高だった。

MCとして真価を発揮する姿も、長引かせて後輩につっこまれてたのも、そうやって後輩に強くこられるとうれしそうなのも、シャボン玉まみれにされてやっぱりうれしそうなのも、PAISENとして百点満点にぜんぶかわいい。ときには声を枯らして何百回何千回と客席を煽ってきた箱で堂々と盛り上げる姿はかっこよくて誇らしかった。少し話題は逸れるけど、じぇっつがバックをつける理由がわたしは好きだ。自分たちがどこに属するチームであるのか、どうあるべきかを胸に刻んでいるひとたちの高潔さ。その誇りはどんなときでも誰にも穢されないと強く信じている。

サマキンで甘い呂律がセリフを言っていたのが感慨深くてすごい景色だったように、環境はもちろん公演中もいろんな懐かしいのトリガーが散りばめられていて、けど今の優斗くんに必死で思い出に浸る暇もないのが実際のところだった。ただひとつだけ公演中に鮮明に思い出したのが、「この夏の青春をつめこんでください!」の言葉。この箱にはぜんぶがある。はじめて優斗くんを見た場所。嫌いな季節を特別に変心させられた年。きっと青春って振り返って指でなぞるまでがワンセットなんだと思う。優斗くんとの青春がどこまでも続いたらいいのに、と思いを寄せながら、大切がぎっしり詰まった箱で優斗くんと一緒にこどもたちを見た。

 

ドームで見る夏の優斗くんもまた最高だった。大勢のなかで仕事人になる優斗くんの覚悟と自覚の表情には、普段のかわいさをこねまわすような好きよりかは、ぴりっといくばくかの緊張の走る好きをおぼえるのでついついこちらの背筋も伸びがちになる。わたしがしゃんと姿勢を正して覗くまるい視界にとどまらず、まるいドームのただしく中心で場をぶんまわして、聞いて、伝えて、管理してと立ち回っていた振る舞いはとても立派で、 きっかけもふくめ、こうあるためにたくさん転びながらもひたむきに走ってきた姿をたとえ全体のほんの一部だとしてもたしかに見てきたからこそ毅然とした仕事ぶりがひとしお心に沁みる。自己実現を他人のロマンにしてしまえるのも職業アイドルゆえの恐ろしさであり、優斗くんの魅力の一翼。

5人でいるときの伸び伸びとした進行(たまの放棄までふくめ)も、EXシアターでこども公演MCを先導するのも、ドームで200人ぶん回すのも好きなのにそこで号令までかけるもんだからたまらず駆け出す好きに追いつけなくなる。ただそこにいてくれるだけでもじゅうぶんなくらい好きなひとがそこにいてくれる以上の振る舞いをしてくれるありがたさと背番号2番のユニフォームを、今一度噛み締めてふかくふかく味わった合同公演だった。あとドームでも顔がかわいかった。

 

8月が終わっても夏はもう少し続いた。前月とは変わって背番号は8181。横浜スタジアムで見る夏の優斗くんはそりゃあもう最高だった。

横浜スタジアムでのセレモニアルピッチは二度目。雨で中止になった試合のリベンジで、横浜をこよなく愛する優斗くんがもう一度機会を与えてもらえるくらいには求められていることがわかって飛び上がるくらいうれしかった。横浜について、横浜DeNAベイスターズについて語る優斗くんが好きなのは、ふんふんと意気揚々に語る姿がかわいいのもあるけれど、たくさんの人間に愛と夢を提供するそのひと自身が愛も夢もたくさん抱いている様に感動するからというのが大きい。さっき、自己実現を他人のロマンに、と書いたけれど、優斗くんのひとを夢へ巻き込む力はこのへんも起因していると思う。

当日、まず黒髪前髪ありに倒れる。再三再四になるが、わたしは夏が暑いことをいつも忘れるし、前髪がないことに慣れると前髪の破壊力も忘れます。そしてみんなのアイドルゆうぴ♡でひとしきりオタクを吠えさせたあと、使命のもとにハマスタのマウンドで愛を語る魂のおしゃべり。わたしは優斗くんが強く美しい生き物なことをとうに知っている。知っていてなお、毎回そのとろけそうな輪郭と鮮烈な輝きにはじめましてみたいにくらくらくるし、流れ込んでくる言葉の怒涛の精神干渉とときめきに気圧されて白旗を上げて、迷いなんてどこにもいなくなる。必須のアイテムボールとマイク。やわらかく気高く育った、大好きなおしゃべり。

話はアリツアに戻って、仙台初日の挨拶。優斗くんが話しながら心臓あたりを手でぎゅっと握り込んでいて、すごい、今このひと、そこでおしゃべりしてるんだ。ってはっとした。才覚溢れる脳でのおしゃべりももちろん惚れ惚れするけれど、心臓でのおしゃべりは感情がおおめにのっていてそれだけにどきりとさせられることも多い。今回の挨拶の尺は恒例化していたボリューム感よりずいぶんとぎゅっとコンパクトにしたようだったけど、だからこそ一言一言が粒立ってきこえた。それから挨拶で印象的だったのがもうひとつあって、有明での挨拶で死生観に触れて会場の温度と湿度がきもちじわっとあがったとき、メンバーが肯定も否定もなく、ただ明るくからっと言葉を差し込んでいた光景にグループという存在のおおきさを感じたこと。HiHi Jetsの、ひとの感情に手垢をつけずフラットにやり過ごせるところがいい。そのひとのさみしさも怒りもよろこびもそのひとのもの。わたしにとっての夏。彼にとっての夏。忌々しく愛おしい季節。オタクが知れることなんて本当に一部で、見えないところどころか優斗くんがくれるおしゃべりからすら我々が真意や真実を完璧に汲み取るなんてできなくて、そしてそんなことはきっとわかっていてなお優斗くんはマイクを握る。どんなときでも大義と美学を持っておしゃべりをする。なんと健気で強かなひとだろうか。

「みなさんが胸を張ってぼくたちの話をできる世界を、ぼくたちが作っていきます」これもまた大好きな優斗くんのおしゃべりのうちのひとつ、五騎当千での挨拶の一節。生まれ育った大好きな情景にいつもの赤れんがカップルを差し込んで、横浜とベイスターズへの想いを語る、声援が力になることを知っているひと。優斗くんが優斗くんでいてくれる限り、わたしはなにひとつ恥じることも臆することもない。感謝したいことこそいっぱいあるけど。狙いからすこし逸れた軌道にあわてる表情も愛おしくて、みかん氷がおいしくて、詳しくないなりに野球がたのしくて、屋外の茹だるような暑さも見逃して許した。試合はめでたくベイスターズが勝利して、チームを祝福する青い光がハマスタを囲んでいた。それを見ながら、港があり、穏やかな風が流れ、そして赤れんがにはカップルが集う、優斗くんが愛するそんな横浜が好きだなと、夏の終わりにこっそり心臓らへんを握りしめた。

 

最高の夏に背を向けないで。早く今を生きて。自担がそう歌った日から、大嫌いな夏はずっと最高の夏だった。人生をこなしながら優斗くんに会いにいくだけの夏が前年までとなにが違うんだといわれると痛いところだけど、夏嫌いの人間が、今年も最高の夏だった!って笑顔で宣言できるんだから、わたしの脱獄も成功としていいんじゃないだろうか。お祭りにも海にも行かない。けど目的を広義の恋に定めて社会を抜け出す。優斗くんに出会った年から今までずっと、わたしにとっての夏とはそんな季節だ。いつかこの数ヶ月もあのスライドショーの一枚になるのかもしれないけど、それでいい。大切にする限り大切は消えないし、毎年懲りずに暑さに驚くように、大好きなアイドルを前に何度だってはじめてのような身を焦がすときめきを感じられる。そしてそのたび夏を許して見逃して、また次の夏が来る。

今年の夏も優斗くんが大好きだった。あ、そういえば恋祭りを歌ってたし、夜のハマスタで見た青い景色は海みたいだった。お祭り、海、恋。何気に全部できたってことでいいかもしれない。