優しい閃光

背番号2番、立ち位置は0番。わたしのいちばん

未確認特別

思い出だけじゃ生きていけないけれど、思い出があるから生きていける。殊更、アイドルに関しては。剣吞な報せや情勢のもとでうごいていたこの一年だからこそ特に意識していたというのもあるかもしれないが、基本的にはいつもそう信条づけてアイドルを追いかけている。

こうして時たま感情や心の動きを文章に落とし込んでいるのは、趣味から派生した本当にゆるい趣味のひとつでもあり、どちらかといえば記録といった側面の方が大きい。けれど、ほんのすこしだけ「そうさせられている」部分があることが否めなかったりする。そして、わたしの最愛のアイドル、髙橋優斗くんにはとりわけよく引き摺り出される。優斗くんを見ることと同じくらい優斗くんという陽に照らされてうまれるわたし自身の影に、そうか、自分はこういうかたちをしているのか、と省察することが好きだ。ファンとしての自分を己の中に持つ。彼は彼で、ステージ上やカメラの前で髙橋優斗というひとりのアイドルとして生きる。決して交わらない世界が彼の存在から始まり展開していくことが一文字のフィクションから始まるドラマのようで、何年彼を応援していても新鮮にときめく。

言葉を読む、書く、発する。誰もが当たり前に行う行為だからこそ教養や人柄が否応にもにじみ出る。わたしは優斗くんの発する言葉や紡ぐ文字列の優しさに羨望の眼差しをむけてしまうことが多々あって、それは内容についてもだけれど、人となりが透ける言葉というツールでまったく胡乱さが見えないというところに収斂する。説得力や訴求力を宿しながら、飾り立てない素直で優しい言葉に今まで何度だって感情を揺さぶられた。いつだってわたしには見えない世界が見えている優斗くんが大好きなのに、更にそれをふんわりとやわらかく伝えるうまさをもってるところも好きだからたまらない。やわらかいといえど、揺らぐことはなくて、かつ他人の考えを否定しない人間になりたいと毅然として言ってのける姿勢も好きだし、なにより尊敬している。憧れでもあるのだ。

つくづく見習う部分の多いひとだから、そんな憧憬にずるずる引きずられそうになることも多い。たとえば一挙手一投足に愛されてきたしるしが表出している事実とその副産物なんかに羨ましくなったりする。素でいたいと思えるのも、これまでに周囲からその素を愛してもらえてきたからこそなのだろう。

言葉というのはときに不透明で、無責任で、それ以上に雄弁だってわたしは知っているし教えてもらった。優斗くんの言葉をいつだって信頼しているし、それは優斗くん自身への信頼とイコールでつながっている(この場合の「優斗くん」には、すべて「アイドルの」の枕詞がつくのが前提だ。というか、わたしの発する「優斗くん」は常に省略形でもある)。言葉には想いと覚悟と度胸が乗る。司会業を筆頭にお喋りも、歌も、また、演技中の台詞でだって。言葉の使い手としての髙橋優斗くんに魅了される。明日を生きるための、思い出に刻まれる。

 

初回放送の日、散々わたしに違う世界の見え方を教えてくれた優斗くんが、ついに世界を変えた。放送後翌日、なにも変わらない空に現実、心臓だったけれど、まったく確実に、変わっていた。変わり始めた、というのが正しいだろうか。

今回の場合は毎週水曜日二十二時だったが、一週間に一度、最高の享楽が確約された時間が用意されることの幸福を改めて知った。アイドルを応援していると、しばしばこういった恩恵を受けることができる。アイドルのファンって、すごい。あほらしいけれど、毎回放送終了後、本気で感じていた。ほんとうに、毎週、毎週ぜったいにたのしかったから。 明朗快活なそのキャラクターは、毎週画面の中で仕事をしたり恋をしたりしていた。顔は世界一大好きな彼と一致しているのに別人で、ふと物語から意識が逸れた隙間に、ああ、仕事をしているな、と理解できた。数瞬の間で惚れ直し、コマーシャルが開ければまた楽しむ。一から十まで幸せな時間。ただ、最終回の某シーンでは、ドラマの最中にもかかわらず、物語中の八木原大輝の、またさらに中の、俳優 髙橋優斗くんに意識を当てざるを得なかった。目に水分の膜を張って、すこし湿った声で、まるで指輪をはめるときのように慎重に、愛おしく放ったあの台詞に、こういうこともできるんだと感嘆したし、何より誇らしく、ファンということを差し引いても純粋に感動できた。こうしてまたひとつ愛を捧ぐ対象が優斗くんからうみだされた。幸せになるんだよ、八木原大輝くん。

髪はもう、切ってしまっただろうか。彼に別れを告げたのだろうか。役と対面で向き合って、ゆっくりゆっくり知っていって、同化させて、成るひとなことにも未だにびっくりする。そういうことができるひとなんだなあ。燃やすエネルギーは多そうだけれど、なんにでもなれてしまうんじゃないか。素を愛し愛されてきた男の子が無限の可能性を手にしているなんて、夢よりも夢だ。自己世界の変革あるいは不変が結果として他者に作用し環境もかわっていくことはあるけれど、基本的には意識の働きかけを外界でなく内側に向けていることが多いようにおもっているので、そういうのもあるんだろうか。なんにせよすごいし、えらいとおもいます。というか、毎秒えらい。

強く色濃い光が隣近くにある場合に、反射鏡になれるような、襲いかかる強烈な光を跳ね返してはもっと熾烈にあるいは柔らかく性質を変えるようなはたらきかけをしている瞬間の優斗くんが好きで、彼の演技力はそういうところとも繋がっているのかな、と、考えたり。

第一話ですら不安や緊張でドキドキしなくなっていたことが、わたしの中でとうに優斗くんが立派ないち俳優だということを示している。もしかしたらそんなのは今更な話なのかもしれなくて、そこはわたしの過保護さだ。けれど、血が早く流れて、喉が詰まって、たのしくて、そういう感覚もまた一興であることは確かなので、どこか違う場面でもうすこしだけやらせてほしい。改めて、全十話と基づく数々の番宣お疲れ様でした。

 

八木原くんに会えていた期間、アイドルは比較的に、鏡写しであるな、ということをよく思惟していた。ステージやカメラは彼らに誠実で、逆転も然りで。彼らが向き合えば、彼らを彼ら足らしめる居場所もまた、真正面に映し出す。遮断され、触れられない世界へと閉じ込められる神聖さは、彼らを特別へと変える。それならば、わたしが本当にすきなのは鏡の前の姿なのか、鏡に写った姿なのかどっちなのだろうか。アイドル髙橋優斗くんへ愛を向けるわたしは、八木原大輝くんというキャラクターすら愛すことになった。向こう側では対面式のそれも、こちらからは裏表の一方通行で、邪推しかできない。しかしその邪推こそ、わたしがエンタメを啜る目的の一つで、趣味から派生した趣味だ。そしてこれは、その記録でもあり、また、「そうさせられている」もはらんでいる。

いつも言っている、分からないから好き、というのは、優斗くんのパーソナルそのものへ向けた言葉でもあるけれど、アイドル髙橋優斗くんの実態のことでもあって、だからこそ好きなのかもしれない。分かり合えないところ、分からないところ、ほんとうに大好きなのだ。「分からない」は、なんら理解の妨害や解釈の瑕疵にならないので、このままお互いにずっと頑固でいたいし、交わらず離れることなく、見えない世界を見る優斗くんをのんびり激しく追いかけて、ずっと生きていたい。

見上げるたびに違う顔をしていて、けれどいつも当たり前然としてそこにいてくれる空のようなひと。これを一生の仕事にするつもりがないのは理解しているし、覚悟もできている。だから、これからもやりたいようにやって走りたいとこ走っていてくれたら嬉しいし、その道筋の途中でわたしが幸せな時間を確約されるポイントがあれば儲けもんだ。いつか空がなくなってもその色が思い出せるように、今はまだわたしもなるべくたくさん上を向いていようとおもえる。

これからも愛おしき我が酔生夢死のために、勝手に拠り所のひとつとしていきます。

 

今日もまったく、かわいいぞ、このやろう!

白い戯曲を握る

ドラマチックなひとときを持つ男のそばにいるだけで、自分も彼のドラマの一部になれる気がした。

今‪‪読み進めている本に織り込まれていた一節。文章を読む際、シーンの情景や言葉に対する薄ぼやけたイメージ映像が、頭の端の方に置かれた小さな小さなスクリーンにひっきりなしに映されている感覚がある。文字列に目を通して理解にかけて、上記の一節を飲み込んだとき、スクリーンは世界で一番に好きな顔を映し出していた。

主人公、とよく言われる人だ。物語性と現実感が相剋して高め合っているように見える優斗くんは与えられたアイドルという役柄に洗練された地で挑むのでむしろドキュメンタリーのようではあるが、それでもドラマチックと形容するにはぴったりな性質の人だと思う。ただ、優斗くんを好きな自分が彼のドラマの一部にいるかと言えば、感覚的には遠からずもなんだかうまくはらまなかった。むしろ主観で主人公とされる優斗くんを見るとき、きっとわたしはわたし自身のこともまた髙橋優斗担としての役を担った主人公として存在している気持ちになるだろう。と、そんなことを考えていたら思考の代わりに投影が止まり、理解が止まり、ページをめくる手も止まったそのとき、やっぱり、優斗くんのことを考えることが好きだなぁと不意に思って、何行か前まで目を戻した。

 

怒涛だった一年だけど、わたしはというと今年もそれなりに楽しく生きていて、それは友達と食べるご飯がなんとなく美味しいからで、道端に咲いてる花がなんとなくかわいいからで、なんとなくタイトル買いした文庫本が思いの外ドラマチックな展開を見せるからで、そして優斗くんのファンをやっているからで間違いない。優斗くんはというと今年もステージにいた。アイドルをしていた。ぐらぐらと揺らぐ情勢の中で、まるで友達と食べるご飯がおいしいみたいに、花が人に何気ない多幸感を運ぶように、運命の出会いをした本が面白いみたいに、今年も一年、優斗くんは当たり前みたいな顔でアイドルで居てくれた。‪どれだけのものに支えられて当たり前然とするか到底計り知れない日常のふりをした非日常にそっと感謝して、そして祈る。そこに立っていてくれてありがとう。当たり前に笑顔でいてくれてありがとう。どうか支えられていることが十二分に伝わっていますようにと、そういう風に何度唱えても足りない行き場のない想いが胸を渦巻いて燻っている間も、優斗くんは向こうで笑っている。‪笑って、求められることは嬉しいと、わたしにとって世界で一番の顔で言う。身を賭した希求の肯定と証明の存在に取り込まれることは心地良くて、なにより深く深くの感情を揺さぶる。

引き起こされた情動は自身からうまれた半身だ。だからそれくらいならば大切にしてみようかと包んで理解しようとして、愛すことのハードルが下がる。優斗くんを見て、悲喜交交が引き出される感覚が好きで、優斗くんを見ているときの自分も好きだった。当たり前ぶった特別に、日々救われている。彼らの放つ眩すぎる光を吸収して自らのエネルギーに変換するような救いも、照らされたおかげで表出した自分の影を見て、安心や実感を抱くような救いも、全部優斗くんがそこにいてくれるから叶うことだ。そういう風に、毎日を死なないために生きることをしない理由をひとつ与えてもらってる自覚があって、ただ当然ながらわたしは彼らがしてくれるように彼らの生活を彩ることはできなくて、じゃあ何が返せるだろうかとなると、やっぱり求められることで動いていると言う。世界一かわいい猫髭を浮かべて。この男の子はこういうところが本当にずるい。

ともあれ、優斗くんが20歳もアイドルをしてくれたのでこの一年も本当に楽しかった。きっと俳優でも、モデルでも、どこにいてなんのお仕事をしていても、絶対にどこかで誰かの主人公だっただろう。でも、ジャニーズでいてくれている。これもまたドラマチックといって差し支えないような経緯の先に。本当に、本当に20歳の優斗くんがジャニーズ事務所所属のアイドルをしていることが嬉しい。その上、ほんの一握りの奇跡すら当たり前と錯覚させてくれるなんてまるで夢だ。眠った後、突飛で異質で、非現実的な世界を当然に受け入れ主観で冒険する夜があったように、わたしたちと非日常をがっちりと繋いでいる。ゆうぴーという主人公、それはそう。でも夢の介在者となりわたしたちをも主人公に仕立ててくれる。求める声を上げれば日曜日の朝でなくなって来てくれるのは、ヒーロースーツを放り投げて着の身着のままに闘うような、ドラマというよりドキュメンタリーちっくなヒーローだからかもしれない。

だからこそ、向けられる感情も朝起きたときの太陽の光も彼に降り注ぐものはすべて鋭く刺すようなものじゃなく柔らかくあたたかくあってほしいとか、一見当たり前に思えるような幸福が消えることなく溢れていて欲しいとか、また無意味な祈りをしてしまう。そんな時でさえも、コマ撮りされたフィルムの一枚としたらほんの一瞬だ。全部繋げて伝説という名の永遠を作っているさなか、20歳の優斗くんが21歳に変わる。

 

21歳の髙橋優斗くんに、どうか当たり前のように輝きと幸せが満ち溢れますように。お誕生日おめでとうございます。

幸福的鳥瞰

「腹は固まった」

いつかのこの優斗くんの言葉が、言葉以外のかたちをもって顕在化していたようにみえた。言葉以外の表現が、言葉と同等か時にそれ以上の説得力を持って示されるのがHiHi Jetsのコンサート。「現場」でなく「配信」というつくりにはなったものの、芯は変わらない。HiHi Jetsというエンターテイナーがつくりあげる、憎いくらいたのしくて愛しい時間に今年の夏も立ち会うことができた。

 

積み重ねてきたものが、きちんと作り手と演者の両方としての信頼へ繋がって、現在の作品づくりの土台や背景、力に成っているんだなとなんとなく察せられる公演だったように思う。当然、そのへんはわたしの可視範囲ではないのであまり突き詰めて思い做すのは野暮だろうから、ぼんやりと感じて、ぼんやりとうれしい気持ちになるくらいに留めておいて、とにかく、「配信」というコンテンツを「現場」と混同せず新しいジャンルとして作り上げるHiHi Jetsは、まるでわたしの良く知るなにより現場が好きなHiHi Jetsで、そこの解釈が違えない嬉しさと、あとはエンターテイナーとしてのプライドを真っ向から受けた心地がして最高だった。猪狩くんの口から語られたように、決してあの配信は現場の妥協でもなければ、現場とすげ替えられるようなものでもない。たしかに唯一無二の確立されたコンテンツだった。けれど、配信が終了したあとのあのいとしい疲労感も満足感も高揚感も、現場の公演終わりと遜色ないほどにあふれていて、違うものとして捉え構築したからこそ得られる同等のパトスにたまらない気持ちになった。

変わりゆくものの中にひとつ変わらない、ブレないものがあることで受ける安心感というのは大きい。コンサートづくりにおけるHiHi Jetsもそうであるし、わたしから見た優斗くんもそう。回数を重ねるごとに安定していく歌声に、好きになったときの輪郭が変わらない嬉しさを感じて、毎公演、何度も何度もなぞって確かめてはときめいた。見るたび成長しているとびきり顔が可愛い男の子。わたしが優斗くんを目で追うようになったきっかけ。とうに目を逸せなくなった今もそれを発揮する優斗くんは、まるで戦いの中で強くなるみんなの、わたしのスーパーヒーローのようで、からっと笑う表情はどんなに晴れた日曜の空よりもぴかぴかだった。

 

「駆けるは泣ける!」と言い合って、もはや死語ですらあるエモいを連呼しながらはしゃぐHiHi Jetsはいつも通りかわいかったし、なにより、駆けるやeotfらに誰よりも希望を見出しているのはきっと彼ら自身なんだろう、とおもうとよりかわいくって仕方なかった。HiHi Jetsを一番近くで見ている彼らがHiHi Jetsのことを一番に好きなのは当然のような気もするけれど。アイドルに飲み込まれて、恋をして、アイドルに夢を見ているアイドルが好きだ。

角度によってHiHi Jetsがまるで運命的に、良くできた物語のように映るのは、彼らが選択を殺さないからだろうか。選んで進んできた裏で捨てたいくつもの選択肢。あるはずだった今日、固定観念やかなぐり捨てた意地や思潮、全部の亡骸の上に立っている自覚があるところもまた好きだと、モニターに映る光の道筋を見つめる五つの背中を見てぼんやりとおもった。選んで、捨てて、そういうのを何度も何度も繰り返してやっと、おなじ未来を見ている。過去、優斗くんが言った「それぞれが「幸せだ」って思える未来」は、きっとあの道の先にあるのだろう。

言葉だけの約束がどれだけ儚く無責任であるかなんてことは、板の上に立つ彼らが一番わかっているはずだ。でもこの時間だけは、馬鹿だと笑われてしまうな夢物語も永遠すらも、どれだけ陳腐でありふれた言葉でもいいから一緒に誓いたい。絆されて、騙されたって良いとお手上げできる幸福がHiHi Jetsのコンサートにはある。アイドルは虚像だ。けれど、虚像こそがわたしたちの可視化部分のぜんぶで、その範囲のどこからどこまでを信じて愛するも自由。そして仮に、ステージの上においては汗も涙も捨ててきたいつかも、なにもかもすべてをきらめきと夢に変換する、またはすべきで、それこそがアイドルだというのなら、HiHi Jetsは言うまでも無く真っ向からアイドルだ。

 

個人的には、既存や普遍を避けることが王道から離れることだとは思わない。王道とは彼らが見据える未来までの道筋とイコールなのではなく、物凄いスピードで駆けていく彼らを追うこちらからみた彼らの軌跡こそが王道なのだと勝手ながらも解釈して、HiHi Jetsを楽しんでいる。王の行く道、すなわち王道。車輪がステージへ刻む跡すらも、だ。彼らの目指す伝説だって口頭伝承がつくりあげる史実で、わたしはその闘いの目撃者になりたい。

 

いつからか、優斗くんってHiHi Jetsのこと好きなんだなあ……と、しみじみすることが増えた。どことなく他人行儀でふわふわとした感情だったけれど、ただ自分のことを優斗くんに投影して、第三者視点で見ていただけだったのだと今になっては分かる。わたしがHiHi Jetsのことを好きで、HiHi Jetsを好きな優斗くんのことが好きなのだ。運命か天啓もわからないようなきっかけで与えられたただの場所を自らの居場所へ、居場所を夢を叶えるための必須条件へ変えたのは紛れもなく優斗くん自身の努力で、おそらく他の4人も同様なのではないだろうか。はじめからこうあったわけじゃない。徹頭徹尾、優斗くん然り個々人が選び歩んできたからこそのものだ。先ほども述べたけれど、全ての今は亡き今の上に成っていて、ということは、今を愛するはこれまでの選択まるごとを愛すことになるのだろう。そして優斗くんが選んできた道を無碍にしてきたことなんかこれまでにたったの一度もない。優斗くんの顔の次に信用しているところ。選ぶも任されるも、託されるも、受け取ったものは絶対に無駄にしない。だからこそのエリート街道ゴールドタイプ。最高の賛辞である。この世界を選んだことは間違いではなかったという言葉が聞けたのも、確かちょうど一年前の夏だった。

公演を通して、これからも道無き道を行く優斗くんの顔をずっと見ていたいな、と今一度はっきり思った。きっと大丈夫のにこにこゆうぴーも、友達申請のお調子者ゆうぴーも、おーいぇーでころころころがるゆうぴーも、他にもいろいろな大好きなにこにこゆうぴーがたくさん。たしか優斗くんは今回の配信で、一曲目の『HiHi Jets』で5人集まって登場するところが良いって言っていた。結局のところ、わたしはわたしに見えている優斗くんのことしかわからないし知りたくないし、触れたくない。だからせめて、板の上に立つ間に彼から見えてる景色だけは、どうかなによりもやさしいものでありますようにと常に祈っている。その上で、いちばん納得できる虚像を真っ向から見せてほしい。自然体を謳ってこの世界へ転がり込み生きている優斗くんは未だ、確かな分化を起こさない(ように見える)。不思議なシステムでうごいているアイドルだけど、隠すところはきちんと隠しきる。見せると隠すのコントラストが綺麗で、日に日にその調節や表現が上手くなっていく様は、プロだし、おとなだと感じさせられるから、どきどきするきもちと、決して内包している空白もしくは暗闇を侵したくないようなきもちが浮かぶ。ふと感じる寂しさを許せるとことか、空虚にすら寄り添ってしまいそうなとことか、ふと抗うのをやめてしまいそうなとことか。そういう、エネルギーの弾道からすこし逸れたとこに生きてるときの優斗くんは危うくてかわいくてひどく魅力的ではあるけれど、やわらかいそこに無闇に触れるのはもちろん嫌だし誰にもしてほしくないので、やっぱり基本はにこにこ笑っていてほしい。

人間力と偶像力という相対的な結合に見る夢、ひとはそれすらも神格化と呼ぶのだろうか。眩いシンクロニシティは、今日も優斗くんをアイドルたらしめている。

 

 

あのころ優斗くんが二十歳になるまで応援するビジョンなんてなかったなあなんて、建前上は最後の一曲にあたるサヨナラの方程式を聴きながらふと思っては、数年前の優斗くんと、彼の十代は永遠なんだと本気で信じ込んでいた自分がフラッシュバックした。同時に、その延長線上にある現在、形は変わったけれどまだまだ青春のど真ん中だとHiHi Jetsに知らしめさせられる。HiHi Jetsのコンサートはいろんな情動が引き起こされるけど、逸らせない今も展開し続けるから忙しい。永遠を信じる瞬間的要素が幾重にもなって今がある。それならば、このまま青春を繰り返した先、どこまでいけるのだろうか。たとえ言葉通りに未来がかなわなくたって、わたしが今この瞬間に抱いた感情と抱いた事実は永遠に存在し続ける。これからもそういう不変をひとつひとつ溢さぬよう大切に抱きかかえて、せわしなく変化し続ける優斗くんを見てときめいたり、笑ったり怒ったり泣いたり楽しくなったりできるなら、きっと、ずっと、幸せなことだ。

 

だからわたしは、この夏を越えたいつかも、たとえ日曜日じゃないいつの日にも見えるものすべてがキラキラ輝くような魔法をかけてもらいに、何度だって彼に会いにいく。そんな永遠を願う刹那の繰り返しの果て、どうか光り輝く伝説が待っていれば良い。

一篇千律

優斗くんを好きになったときのことを、不意に思い返す瞬間がずいぶん多い年だった。今年は彼の人生において節目のタイミングでもあって、境界線をすたすたと越えて行くその姿は存外今までとなんら変わらず、むしろあるべきところへ還ったような感覚すらあって、そうか、とっくに変わっていたんだと、すとんと腑に落ちた。あれほどゆっくり流れてくれと願っていた彼を取り巻く時間が却って日々駆け抜けるように進む彼に追いついたかのように思えることが我ながらおかしかった。

好きになったときと言えど、顔に目を引かれて眺めているうち、日々変化していくさまに気がついて、心惹かれた。それで気がつけばいつしか担当を名乗っていただけ。点のかたちをしたきっかけはいくら探してもどこにもなくて、ただそこに優斗くんがいて彼を見てしまったから。ともすれば、線のようなそれは今もなお続いているものであるだろう。いつ背を向け来た道を立ち返っても、また、ずっとずっと前を走る姿を必死に追いかけて覗き込んでも、いつも同じような顔で笑む。から、なんとなく負けた気持ちになる。三日月のように細めた目は、記憶を前哨戦とすらさせてくれない。いつだって今に収斂してしまう。かなわないな、と特別たくさん思った。そう優斗くんにお手上げすることがなにより楽しかった一年でもあった。

 

アイドルが偶像である意味もしくはアイドルを偶像たらしめているファクターって、そうでないと意味がないからなのかもしれない。それならば、少なくともわたしにとっては都合が良い。真はひとつしかないけど偶ならば皆がそれぞれ抱いて良い自由なものだ。優斗くんの担当をするにあたって、わたしはあくまで「わたしに見えてる優斗くん」が好きだという前提が一番中心にかたくある上で髙橋優斗くんを応援している。気がついたらはじまっていたワンオンワンのその線上の、ほんのわずかが自分に与えられた永遠だと信じている。それに並行して、優斗くんがくれるアイドルは決まってありのままの髙橋優斗くんである、という解釈も存在していて、それは向こうからの像の提案が一切ないというより、それが包み隠さない彼そのものだからなんだかいつも慎重になってしまう。大事な男の子のパーソナルな部分やカタルシスに触れるのは怖い。そもそも、自分のノンフィクションを切り売りできるのって凄いことで、果てしなく恐ろしい。特異なそこで生きる以上、しなければいけない、なのかもしれないけど。でも、そういえばこの男の子は、ここに飛び込んできたときから今までそうしてここで生き続けているんだっけという気づきは、白球と一緒に彼から打ち返されたものだ。衣装替えの忙しなさが残りつつもユニフォームを纏ってどたどたと現れた優斗くんは、舞台上で楽しそうに笑っていた。

彼の泣くところを見たのは今年の夏が初めてで、正直怯んだし、落とし所も見つけられなく、今も心にそのまま残っている。観劇しながら、これをすることの意味も正解もわたしには一生分かる時は来ないだろうと思惟し、それでも「Youはもう大丈夫だよ」の言葉が優斗くんにとって呪いじゃなくて希望になりますようにと、そればかりを願った。舞台上と客席、隔てる二つの面を重ね合わせてくれるのがエンターテイメント、ショービジネスなのだとしたら。君がここで命を燃やすというのなら、どこまでもどこまでも、線を描く手を止めずにいけると思えた年の瀬だった。

絢爛な衣装を翻し、たくさんのジャニーズジュニアを牽引する顔つきに、度々好きを噛み締める。たのしい私服も好きだけど、ジャニーズのジャニーズらしい衣装が君には一番似合う。これも天性と銘打つ理由にして許されるだろうか。色を抜いた髪がはらはらと散って、まるで王子様にしか見えなくて戸惑った。そういえば、比較的お口を一文字に結ばなくなったような気がする。代わりに、新しく大好きな顔もたくさん見つけた。それがどこまで増えていっても、わたしが頑張れる優斗くんしか知らないことは変わらない。

君がどこにいたって好きだけれど、その面持ちでそこに立つ君だから、立てる君だから好きになったんだろう。

帝国劇場の真ん中に立つ優斗くんを見るたびに思うことだ。今日の優斗くんは過去にも未来にも繋がっている。まさか3年前の冬に眺めていた顔の可愛い男の子がここに繋がっているとは思わなかったけど、それでもその時優斗くんを見ていたわたしすらも、紛れもなく今のわたしに繋がっているのだ。ときたま振り返りたくなる、なんにもできなさそうでなんでもやっちゃいそうな、危うさをはらんだ希望と呼ぶべきみずみずしい煌めきたちだって、滲んで延びた先に今がある。変化とともにある優斗くんの担当は、飽きることがなくてとっても楽しいし、しあわせだと噛み締めるのも何度目になるだろうか。

 

 

年の瀬といえば、2017年12月に少年倶楽部で披露されたgiftを思い出す。当時はじめて放送を見たとき、何故か涙が出そうだった。絶対に守りたいわたしの宝物みたいな男の子と、宝物みたいな思い出、景色、経験、ぜんぶ積み重ねていきたいと切に願った。眉を下げて必死に広げた手のその中に、彼が欲しいものは残らずすべて抱えて欲しい。その気持ちは今もなんら変わっていない。宇宙一幸せになってほしいひと。

優斗くんのことを好きでいる自分の中には常に、腹の底から思い切り叫んでこの想いを世界中に知ってほしい気持ちと、自分以外の誰にも知られたくないような気持ちが常に綯い交ぜになりながら揺蕩っている。それってなんだか恋みたいかもしれない。そういえばわたしが好きな男の子は、なんとリア恋爆モテキャッチャーだったなあ。でもなんだか今は、わたしだけの特別なフィクションを、わたしだけの宝箱に詰めておきたいきもちが一層つよくある。そうだ、宇宙船から見たこの劇場は、宝箱に見えてるだろうなあ、と思ったんだった。どうかな。

 

だから、これはここだけの話で。

実はわたし、髙橋優斗くんという男の子のことがすごくすごく、すごく、大好きなんですよ。ずっと。きっと、来たる2020年も。

 

 

 

それは不思議なんだけど ただそこにあるだけなのに

今日の喜びと勇気をくれる贈りもの

根拠なんて無理して探さないよ

どんな時も(いつも僕は)ずっと好きでいるよ

Thank you for your gift!

こっち振り向いて笑った君を見つけてわかった

gift gift ありのまんまの君が(気まぐれでもなんでもいい何も飾らず自由に紡げstory)

大事な時は向きあって不安な時は寄りそって

gift gift 宝物だよ(たったひとつの)

花束の代わりに

本日、最愛のアイドル、髙橋優斗くんが二十歳になった。嘘みたいな本当の話だ。なんと優斗くんは年が一周するたび、ひとつずつ歳を重ねる。というのも、髙橋優斗くんはアイドルである裏、真っ向から人間で、決してアイドルアンドロイドなどではないからだ。

当時、彼が十六歳とさようならする間際だった。ずんだ色の衣装を着て踊る優斗くんを見て、紛れもなく世界で一番顔が好きなひとが現れてしまったと思った。ふにゃふにゃ動く四肢やふにゃふにゃの表情が日々少しずつでも変わっていることに気がついたときにはもう目が離せなくなっていて、とにかく顔がかわいくて、たぶんおそらく努力家で、どうやらおしゃべりが好きらしいこの子のことをもっと知りたくて、そうしてたどり着いたのは世界一好きな顔が映ることのない媒体。情報を耳から脳へ流し込むうち、彼がまあそれはそれはへんてこな男の子だと気がつく。きゃらきゃらと無邪気にふるまっているのに、時折どきりとさせられるような確信めいたことをほろっと落として、それなのになんでもないようにずんずん先へ進んでいく。とつぜん頓珍漢なことを言ったと思ったら、不思議な顔ですこし立ち止まって、また大きく笑って歩いていく。顔がかわいくて、なんだかへんてこで、膨大なときめきをはらんだ不思議な男の子だった。

優斗くんの好きなところのひとつに、若さがあった。未完成で、突っ走って、いくら転んでも起き上がって。泥臭くて一生懸命じゃないときなんて一時もない。それだけでなく、立ち上がった時には何が間違いだったか冷静に見直せる。思慮深く、ひとに慮ることができる。彼を纏うみずみずしさに相反するどこか冷静で大人びた内側のやわらかい部分も、またたまらなく好きだった。

優斗くんにありったけの青春を振りかざされるのは嫌いじゃなくて、まだ青いときめきに支配されるのは苦しくて心地良いものだった。はじめは金網の外からひっそり青春の当事者を見ていたつもりが、いつしか、自分もその砂を踏んでいたように思う。負けたら悔しくて、勝ったら嬉しい。応援の楽しさを知った。とっくに青春の中心まで手を引かれていた。

 

アイドルという虚像を前に、人間力はひとつのステータスになってしまうのかということを考える。それが必要もしくは不必要だとか、それも含めたまるごとが偶像であるとかこのへんは人それぞれの考えがあるかもしれないが、髙橋優斗くんというアイドルについて言えばそれらの顕在化はアイドルとして生きることにおいて切り離せないものであるように思わされる。自分以外の何者でもなかった髙橋優斗くんが存在していた証明はアイドルの優斗くんを生かす。自然体を謳うからこそ、世俗から離れて神格化されたキラキラアイドルにもなれる。これもすごいへんてこだな、って思うけど、TDCで「俺たちがー!」と叫ぶゆうぴーも東京ドームで自らの名を煽るゆうぴーも、同時に髙橋優斗くんでも在ったように見えたからひとり勝手に安心感を抱いた。憎たらしいくらい頼もしくて、大好きないつもの可愛い男の子。

まるで青春の擬人化のような彼が、ひとつ前に身を置いていた場が野球少年時代であることはオーディション話やたくさんの野球トーク、そこで培ったのであろう考えや行動、思い出話から伺える。誕生日プレゼントにメンバーから木製バットをもらっていたエピソードに、得も言われぬ気持ちになったこともある。

十九歳の優斗くんが務めた夏の始めの始球式は、平行して共存しほとんど交わることのなかった青春同士の交差点だった。

髙橋優斗くんという男の子、野球少年、ひとりのアイドル、の 三色の光が重なって、その真ん中いちばん明るい真っ白な光はちらちらと眼前に飛び散った。それがひたすらに眩しくて、瞳を閉じた瞼の裏に浮かぶ文字はスーパーヒーロー以外に有り得なかった。

今までのすべてが彼の中で渦巻き、結びつき合い生きていることを痛いほど感じた出来事だった。

 

十九歳。大きな動乱が幾度となく襲い、アイドルとして生きてやるという意思を今一度抱えなおした年だったように感じる。

そんな中で伝えられた、「野球よりも熱中できるものに出会えた」という言葉。本当はずっと聞きたかった言葉だったのかもしれない。咀嚼し嚥下するまでにたいそうな時間をかけた。一生聞けないならそれでも構わないと思っていた言葉だった。それでも言ってくれてしまうのが優斗くんで、そんなアイドルが好きなことの誇らしさといったらない。申し訳なさと、くやしさと嬉しさ。いろんな気持ちが綯い交ぜになって、最後にはこれすらときめきなんだと知った。

 

昨年の今日。彼が十九歳という年齢を迎え入れた時から、すでに今日へのカウントダウンは始まっていた気がしている。

いつだったか、失いたくないものが増えていくほど我に返った時にそれが消えてしまう時を思って怖くなる。でもそれが大人になることであると思うと言っていた優斗くんに、ひどく焦燥感を抱いた。結局は、若さにかこつけた有限性以外を信じきれていなかった部分が大きかったように思う。けれど、今年の夏、EXシアターに立つ優斗くんに、”いままで”と”これから”を感じた時。好きになったときの新鮮な感覚と、これから好きにならざるを得ないだろうという強引な確信。夏を終えてからもそれはひかぬまま残り続けた。そして今日、日付が変わった朝、目を覚ました時。紛れもなく私はまだ青春のど真ん中に立っていた。二十歳になった髙橋優斗くんのことが、信じ難いほど好きだった。

 

 

優斗くんはとりわけ、夢を託されるのが上手だ。叶えさせてあげたいと思わせる。叶えてくれるだろうと無条件に信じさせられる。それはずっと、ずっとそうであった。だからこそ、こんなところまで丸腰で青春に巻き込まれてきた。夢はときめきでもあり、希望でもある。まるで移植される心臓の如く人々のきらめきを無意識に請け負って、然れども自分の魂に従順に輝く。

たくさんの人の幸せと夢、ときめきを司る優斗くんが、その預かった分に等しいだけ幸せにならないなんて有り得ない。

私の中のアイドルの定義は他でもなく、髙橋優斗くんの存在そのものにある。人好きのする笑顔で、琥珀色の双眸に灯す闘志で、ステージという名のマウンドを踏みしめるその両足で、辿り着けない場所なんてどこにもない。

 

 

二十回目のお誕生日、本当にほんとうにおめでとう。優斗くんの十代が最高になったのなら、それは他の誰でもない、優斗くんの功績だ。一年前の何気ないことばにしれっと満点のアンサーをたたき出す、そんな優斗くんなら、きっと二十代も、何歳になっても、自分の楽しいと感じることを全力でする優斗くんでいられるはずだ。

そんな優斗くんを。顔がかわいくてへんてこで、それから、生まれ変わっても自分でいたいと真っ直ぐに誓える優斗くんを好きになれて本当によかった。

わたしも、生まれ変わってもまたもう一度髙橋優斗くんのファンとして生きたい。

 

けれど、そのときがいつになるかはまだわからないから、だからひとまずは二十歳になった髙橋優斗くんの担当から始めよう。お誕生日おめでとう。これからもよろしくね。

残量

少し前に、友人からブルートゥースイヤホンを貰った。その時ちょうどイヤホンが欲しかったのと、わたしの好みを見越した粋な選択がそれはそれは嬉しくて、大袈裟だと笑われるくらいに喜んだ。

 

出先だと言うのに充電がほとほとなく、最後まで聴けるだろうかと案じながら道のりの長い電車に腰を据えてブルートゥースを接続した。隣に座った女性は疲れた様相でこっそりと甘味を食べていて、目の前の学生数名は控えめな声でおそらく部活動かなにかの話をしていた。そんな土曜日の21時05分。耳にはいつもの軽快な音楽が流れる。

上京し、都内の学生としてそれなり平凡に生きている自分の土曜21時は、バイトのシフトが入っているか友人や知り合いと会っていない限りは基本的にひとりの時間になる。しかしわたしには、約一時間の特別な居場所があった。そこは大好きな男の子と、その隣の大先輩 兼 彼の相棒さんが織り成すかわいくて愉快な優しい空間だ。

 

「ラジオをつければひとりじゃないよ。けんちゃんと一緒に、待ってるからね」

 

終わりが来ることは予想していた。分かっていた。けれど、その上でいつも通りの楽しくてかわいいふたりの会話が愛しくて、同時にそれを成立させられるようになった優斗くんが誇らしかったし、そしてそれは他でもない安井さんがいてこそだった。相変わらず優斗くんは破茶滅茶、奇想天外、かわいいけどもはやちょっと怖い域なくらいの、へんてこな発言をぽこぽこと放つ。これぞ「らじらー」の優斗くん。大好きな優斗くん。電車に揺られながら、彼らの三年間の上に成り立ったいつも通りを甘受して、いつも通りゆうぴーかわいいかわいいして、たまにイヤホンの充電を気にした。隣に座っていた人はいつのまにか変わっていた。

結局、放送が終わる十分前ほどにぶつっと充電が切れてしまった。惜しかった、と泣く泣くイヤホンをしまって、公式ツイッターを監視することにして、更新、更新、更新……。指が止まる。ああ、そうか。

この文を読む彼らの声を聞かなくて良かったとさえ思った。

この事態は予測できていたことで、それにジャニーズJr.のラジオで任期三年でもどれだけ凄いかってこととか。分かってる。分かってるんだけど。でも、「三年続けられたことが奇跡なので」そうかなあ。三年も続けられたのは、きみが、頑張ったからじゃないのか。安井さんが、周りの大人が、優斗くん自身がまっすぐらじらーに向き合ってきたからじゃないのか。対面でなく横並び、ふしぎなブースに入所一年足らずでえーいとぶっこまれたおしゃべり好きの男の子が一歩一歩着実に進んできた三年間。奇跡って一体なんなんだろう。なんなんだろうね。

しばらく呆然としていたら最寄りに着いたからふらふらと電車を降りた。電車とホームの隙間をまたぐ瞬間にふと目に付いたのは、椅子の下に投げられた、乗車時に隣だった女性が置いていったのであろう空のお菓子のパッケージ。戻って拾うことが出来なくて、けれど何故か足早にそこを動くこともできず、しばらくドアの前で立ち尽くしていたらその境界線はほどなくして遮断されて、さっさと電車は去っていった。

ラジオをつければひとりじゃないよ。たくさんの笑顔のもとを用意して、土曜日の21時頃待っててくれたふたりはもうすぐどこかへいってしまう。ひとりのわたしはどこに帰ればいいだろう。そんなことを思いながらエスカレーターでなく階段で改札までのろのろと向かった。

 

充電の切れた淡いピンク色のイヤホンに音は流れないし、四月、桜の咲く頃にふたりの声は流れない。かと言って奇跡はもうそこにないし、彼……彼らの色をしたイヤホンを充電する気にも、今はまだなれない。

未知たりた愛

自担である優斗くんのこと、わたしはどのくらい知っているのだろうなと思索しては、ほとんどなんにも知らないことを実感して楽しくなる、という流れを、飽くことなくもう何度も何度も繰り返している。

わたしは、応援しているアイドル髙橋優斗くんのことを本当に何も知らない。それに対して特に歯噛みするようなことこそないが、やっぱり人柄や趣向、言動や流れは常に予測できないし、いつも予想の斜め上をいかれてしまうから毎回新鮮に驚きはする。そして面白いなと思う。今回は、気がつけばピンクのひとになっていた。理由は明るくいきたいからとかなんとか。

君はなぜそこに立ち続けるのか。問いたさに喉から手が出そうな日々を過ごしていたら今日という日。ゆうぴーは知ってる?知らないかな。知ったこっちゃないかな。でも知ってる顔に見えるんだよなあ、じゃあいつからそんな顔をするように……。また、知らないことが出てきた。

勉強がすきな人々がよく言う、勉強をすればするほどに知らないことが新しく出てきて、余計に意欲が掻き立てられる……。そんな文言。あいにくわたしは勉強があまりすきではないけど、優斗くんのことはすきなので、うんなるほど。ちょっとわかるかもしれない。

しかし、だ。わたしは優斗くんを一から十まで知るために優斗くんのオタクをしているのではない。言ってしまえば、髙橋優斗くんというひとりの人間より、“わたしから見える範囲の優斗くん”が大好きであるというのが正しい。ゆうぴーを知り尽くすどころかまず「優斗くんを知る」というタスクが、わたしが優斗くんのおたくをするに当たって存在しない。そりゃあ知れたら嬉しいなラッキーだなってこともあるけれど、それは「わたしの優斗くん」に対する装飾にしかなり得ないので、結局のところ優斗くんの知らない部分が大量にあっても何も困らない。

わたしが優斗くんのことをなにかひとつ知ったって、なにかひとつ知らないということを知ったって、優斗くんは変わらずよくわからない生物のまま生きていく。わたしは優斗くんの未来はわからないし優斗くんも優斗くんの未来はわからない。わからないからこそ優斗くんは昨日も今日も明日も死ぬ気でアイドルとして生きるんだろうし、わたしもわたしだけの優斗くんを全力で大好きでいる。それでいい。それがいいよ。

 

わたしには赤に見えるなにかを優斗くんがこれ青だね!と言ったとする。その後もわたしの目には変わらず赤以外のなにものでもなく映るだろう。そのかわり、わたしには赤にしか見えないそれが優斗くんには青に見えることがわたしはすごく面白くて、じゃあこれは何色に見えるんだろう?そのとなりはどうなんだろうってウキウキしながら考えたりしてみる。それがどうしようもなく楽しい。

ただ、優斗くんや優斗くんの見る景色がわたしの見ている優斗くんやわたしの見る景色とどれだけ違うものだとしても、優斗くんの見る夢だけは端っこだけでも共有して同じものを見てみたかったりする。でもやっぱり優斗くんの夢がなんなのか、どこなのかはあんまりよく知らないので、どうか色鮮やかで光満ち、幸福で、どこまでも名の通り優しいものであってほしいと願うだけ。それだけだ。

 ってかんじの、なんにもない日に髙橋優斗くんを見続ける楽しさを噛み締めていた、なんでもない記録。