優しい閃光

背番号2番、立ち位置は0番。わたしのいちばん

きみが月を冴えさせる

優斗くんが24歳になる前日、伝記がアップされた。23歳最後の更新だった。あと数時間後には多くの祝福を贈られるであろう当の本人が「全然気づかなかった笑」と見慣れた改行の中であっけらかんと笑っていて、視線で文章をなぞりながら、共感とらしさ、ふたつのわかるなあが浮かんだ。そういうものだよね、と身近な感覚に頷きながら、優斗くんってほんとそうだよねって呆れて笑いたいきもち。優斗くんを観察していると常に、きみってほんとそう、と、そんなことあるんだ?   の連続。いつもよりすこしボリュームのある文章をご馳走を食べるときみたいにわざとゆっくり読んだ。まっすぐと、なんでもないように、嫌味なく届けられる飾り気ない言葉のひとひらずつにあたたかな体温と意志が宿っている。根はかなりのマイペースで頑固なところもあるけれど、身軽で自由なひとりしゃべりや結果としてどこかのだれかに刺さればいいというような無法な話し方は結局あんまりしない(できない?)のも引力のうちのひとかけらだ。読み進めるうちにスマホを握りしめていたのは、コンサートでの挨拶のとき白く光るペンライトを握る手が無意識に力をこめるのとたぶん同じだった。きみってほんとそうだよね、のあとの、そんなことある?   のターン。好きだ。とっても。どうしよう、やばいかも。大好きだ!   衝動的にほとんど書き終わっていたブログの全文を消した。そしてすこしして、今これを新しくうちこんでいる。なんでかって、正直理由らしい理由はなくて、というか優斗くんを好きなじぶんってわりといつもこんなかんじ。とつぜんこちら側を正面にとらえた優斗くんに焼かれるように照らされると、すべてをいちからはじめてみたくなる。なめらかに研がれた心意気に貫かれるたび、張り合ったことなんて一度もないのに、どうしてか、勝てない、が一番近いように思う情感に襲われるし、目を細めてしまうくらいのまばゆさと、次に目を開けたときに世界が変わっている感覚が心地よくて好き。挑戦し続けてきた人間にしか咲かない華やかさは人の足を止めて耳を傾けさせるし、ひたむきさは人を動かす。素直さに世界をひっくり返される。自分の一部を塗り替えられることがこんなにも清々しくて尊いものなのだとわたしは優斗くんに出会ってはじめて知った。

なので、編集オプションで投稿日を変えているけれど、ほんとうは表示された日にちよりもあとに書いた文章だ。まあ、そういうことがあっても良い。おたくがアイドルの誕生日に書くブログなんて自らつけたタイトルよりも日付のほうが重要であり、もはやそちらが題名のようなものだ。ところでおたくそれぞれに一生忘れられない特別な4桁の数字が存在するのだとおもうと面白いような愛おしいようなきもちになる。好きなひと、好きだったひとの誕生日って知ったそのときからずっとわすれられないのなんなんだろう。

出会ってよかったって思える人しかいない、のあとのH・A・Fの文字。飽き性な彼らが、意外にも使い続けているわたしたちを表す固有名詞。これからたくさんのありがとうとおめでとうを向けられる優斗くんが一足早く綴ったわたしたちへのありがとう。感極まるより先に、ずるいよってちょっと笑ってしまったことをここに残しておきたい。ありがとうなんてこちらが言いたいのに。誕生日に限らずいつだって言いたい。ありがとうとだいすきはどれだけ言っても満足することないし、たとえばわたしだって優斗くんに『君が君でいることがとても美しい』って大きな声で伝えてみたい。『君こそ我が誇り』なんだよってうたってみたい。優斗くんがただ、優斗くんであることを、優斗くん自身も周りも忘れないでいてほしいし、わたしもどんなときも忘れたくないよ。ぜんぶこっちのせりふなんだけどな。それでも歌うのは優斗くんでわたしはいつもあまやかに笑いかけられるだけ。アイドルってずるい。アイドルって、いいなあ。

 

伝説になると語った夏も、あるいは最速でと野心を見せた夏も、ステージの上で強気でいられる人間が好きな自分にとってどちらもひどくあつい夏だった。それがアイドルをアイドルたらしめているとさえ感じる。虚勢を張って理想を騙って、そうあろうとする人間にだけそうなれる権利があると思っているし、させてくれるのがステージであってほしいと信じている。あれから数年が経って今年のコンサートでの挨拶は少し変わっていたような、気がする。落ち着いたとか丸くなったとか、そういうのではなくて、根幹は揺らいでいなくともどことなくおだやかになった。抱く感情を大切に、けれど振り回されすぎず、とぎすまされた怜悧さで今この瞬間にもきちんと目線を向ける冷静なぎらつき。これもまた大人になったということなのだろうとぼんやり思った。夏はまた今年も性懲りも無くあつかった。この事務所に入ってから大人でいなくてはいけない場面がいくつもあった優斗くんを数字上の年齢で大人か子どもかとはっきり線で分けるのは不可能で、かつてはそのことにやきもきしたり寂しさを感じることもままあったというのに、優斗くんがたくましく長ずるにつれいつしかそのもどかしさもほとんど波立たなくなったのも感慨深い。ただ、どれだけ立派になっても、まろいラインで描かれた横顔が時たまむしょうに切なくなるくらい大人びても、優斗くんは知らない人の顔では笑わない。少なくともわたしに見えている優斗くんはそうだ。優斗くんってつくづく不思議だ。不思議すぎて、優斗くん以外の誰にも髙橋優斗くんというアイドルを詳らかにしてほしくない。どれだけ時間をかけてどれだけ眼や耳や脳みそを使ってどれだけ言葉を尽くしても雲を掴むような手触りで、なのに握りしめた雲にすら愛着が湧いてくるような、そういう、かわいらしくて愛しいいきもの。必死にばかみたいに紆余曲折なんやかんやとやって、最終的にうーんやっぱりわかんないなあに辿り着きたい。わたしにとってゆうぴーって何歳になってもそういう存在なのかもしれない。

 

なんとなくふわっと優斗くんおたくとしての今年の一曲、的なものが各年にある。23歳の優斗くんを思い返せば流れるのは『Fantastic Ride』だ。アリツアで披露していた曲。ふぁんたらをにこやかに歌い踊る優斗くんのいる世界は、満天の星の光ときらびやかなイルミネーションが共存する夜の遊園地みたいなイメージ。紺色の上にたっぷり星をしきつめた夜空も、煌々と光を放つシャンデリアもイルミネーションも、とびきりおおきくって明るい月も、宝石だって、きみがほしいならぜんぶそこに存在させてもいいんじゃない。そういう風な、こども時代に夢みた浪漫を大人だからできる贅沢でかなえるファンタジー。で、それを許す器量と秘密を共有してくれるずるさが非常におとなっぽく、とはいえ本人も楽しさを隠せずに無邪気に笑っているような。ふぁんたらの優斗くんを見ながら、大人になるっていいなってかみしめていた。素敵なことなんだなって。今でも忘れられない最高の景色だった。

 

自分すらも対象に世界を変えてしまえる側のひとだって散々分からされてきた。野球よりも熱中できるものに出会えた。世界が変わりましたね。そうかー、そうなんですね。ありがとうもよかったとも言えない。後悔の色があまりにもちらつかないから、その強さとさみしさがほんとうに好きでどうしようもなくて苦しくなる。生き様を楽しませることが優斗くんのアイドル観であるのなら、よりいっそうこういう堂々とした振る舞いや甲斐性に甘えないようにしなければいけないとおもう。かつて「毎日全力で最後に後悔しないで終われるような」と、台詞に落とし込んで言っていたね。今までもこれからも選択の連続なんだろう。選ぶことは選ばないこと。手にする代わりになにかを捨てていく。削ぎ落とす。切り売りして、別れて、そこに立っている。リアルタイムには決して見せなくたって痛痒を感じないわけじゃないのはそれこそ痛いほど知っている。そんな優斗くんの中にあるさみしさのおかげでわたしは優斗くんの元気で無敵なところをみつけて応援できるわけだ。選択を無駄にしないよう納得できるまで奮闘してそうしてさみしさすら乗り越えた優斗くんを、優斗くんはわたしたちに提供してくれる。それってびっくりするくらいにんげん。わたしはアイドルでヒーローであろうとしているにんげんを応援している。夏が好きな優斗くんは、生まれた季節がよく似合うとおもう。秋の心とかいて愁い。

じゅうぶん幸せだった生活で内面化された部分がアイドルとしての優斗くんを輝かせている。 優斗くんは朝を知っている。朝の刺すような光とくるしさも知っていて、 眠らない遊園地の楽しさとものがなしさものみこんでいる。優斗くんというアイドルは朝と昼と夜、毎分毎秒くるくる切り替わって、小気味よいリズムとバランスで成り立っている。豪快な笑い声で目を覚させて、なにげない人差し指が夜のスイッチを押す。優斗くんを想って見上げる夜空に月が浮かんでいる日はいつも嬉しい。きっと月にだって行けるよ。いつかね。

 

食べられるときに食べて、眠れそうなときには眠って、笑いたいときに、すきなだけ笑ってほしいと、いつも願っています。そんな単純なことすら、ひとつひとつが難しいところで生きてるんだろうけど、やっぱり、どんな日もなるべくすこやかでいてほしいな。生まれてきてくれてありがとう。 こちらこそ、出会ってくれてありがとう。ありがとうをくれてありがとう。これからもの五文字が輝いて、明日からの道が光で白んで照らされるのがすごい。やっぱり、永遠より、一生より、照らされて覚悟するこの一瞬の一個ずつのためにおたくやってるなって思ってしまうくらいに。24歳の生き様も最高に滾って輝いてみせてね。あなたのことが本当にだいすきです。お誕生日おめでとう。