優しい閃光

背番号2番、立ち位置は0番。わたしのいちばん

花束の代わりに

本日、最愛のアイドル、髙橋優斗くんが二十歳になった。嘘みたいな本当の話だ。なんと優斗くんは年が一周するたび、ひとつずつ歳を重ねる。というのも、髙橋優斗くんはアイドルである裏、真っ向から人間で、決してアイドルアンドロイドなどではないからだ。

当時、彼が十六歳とさようならする間際だった。ずんだ色の衣装を着て踊る優斗くんを見て、紛れもなく世界で一番顔が好きなひとが現れてしまったと思った。ふにゃふにゃ動く四肢やふにゃふにゃの表情が日々少しずつでも変わっていることに気がついたときにはもう目が離せなくなっていて、とにかく顔がかわいくて、たぶんおそらく努力家で、どうやらおしゃべりが好きらしいこの子のことをもっと知りたくて、そうしてたどり着いたのは世界一好きな顔が映ることのない媒体。情報を耳から脳へ流し込むうち、彼がまあそれはそれはへんてこな男の子だと気がつく。きゃらきゃらと無邪気にふるまっているのに、時折どきりとさせられるような確信めいたことをほろっと落として、それなのになんでもないようにずんずん先へ進んでいく。とつぜん頓珍漢なことを言ったと思ったら、不思議な顔ですこし立ち止まって、また大きく笑って歩いていく。顔がかわいくて、なんだかへんてこで、膨大なときめきをはらんだ不思議な男の子だった。

優斗くんの好きなところのひとつに、若さがあった。未完成で、突っ走って、いくら転んでも起き上がって。泥臭くて一生懸命じゃないときなんて一時もない。それだけでなく、立ち上がった時には何が間違いだったか冷静に見直せる。思慮深く、ひとに慮ることができる。彼を纏うみずみずしさに相反するどこか冷静で大人びた内側のやわらかい部分も、またたまらなく好きだった。

優斗くんにありったけの青春を振りかざされるのは嫌いじゃなくて、まだ青いときめきに支配されるのは苦しくて心地良いものだった。はじめは金網の外からひっそり青春の当事者を見ていたつもりが、いつしか、自分もその砂を踏んでいたように思う。負けたら悔しくて、勝ったら嬉しい。応援の楽しさを知った。とっくに青春の中心まで手を引かれていた。

 

アイドルという虚像を前に、人間力はひとつのステータスになってしまうのかということを考える。それが必要もしくは不必要だとか、それも含めたまるごとが偶像であるとかこのへんは人それぞれの考えがあるかもしれないが、髙橋優斗くんというアイドルについて言えばそれらの顕在化はアイドルとして生きることにおいて切り離せないものであるように思わされる。自分以外の何者でもなかった髙橋優斗くんが存在していた証明はアイドルの優斗くんを生かす。自然体を謳うからこそ、世俗から離れて神格化されたキラキラアイドルにもなれる。これもすごいへんてこだな、って思うけど、TDCで「俺たちがー!」と叫ぶゆうぴーも東京ドームで自らの名を煽るゆうぴーも、同時に髙橋優斗くんでも在ったように見えたからひとり勝手に安心感を抱いた。憎たらしいくらい頼もしくて、大好きないつもの可愛い男の子。

まるで青春の擬人化のような彼が、ひとつ前に身を置いていた場が野球少年時代であることはオーディション話やたくさんの野球トーク、そこで培ったのであろう考えや行動、思い出話から伺える。誕生日プレゼントにメンバーから木製バットをもらっていたエピソードに、得も言われぬ気持ちになったこともある。

十九歳の優斗くんが務めた夏の始めの始球式は、平行して共存しほとんど交わることのなかった青春同士の交差点だった。

髙橋優斗くんという男の子、野球少年、ひとりのアイドル、の 三色の光が重なって、その真ん中いちばん明るい真っ白な光はちらちらと眼前に飛び散った。それがひたすらに眩しくて、瞳を閉じた瞼の裏に浮かぶ文字はスーパーヒーロー以外に有り得なかった。

今までのすべてが彼の中で渦巻き、結びつき合い生きていることを痛いほど感じた出来事だった。

 

十九歳。大きな動乱が幾度となく襲い、アイドルとして生きてやるという意思を今一度抱えなおした年だったように感じる。

そんな中で伝えられた、「野球よりも熱中できるものに出会えた」という言葉。本当はずっと聞きたかった言葉だったのかもしれない。咀嚼し嚥下するまでにたいそうな時間をかけた。一生聞けないならそれでも構わないと思っていた言葉だった。それでも言ってくれてしまうのが優斗くんで、そんなアイドルが好きなことの誇らしさといったらない。申し訳なさと、くやしさと嬉しさ。いろんな気持ちが綯い交ぜになって、最後にはこれすらときめきなんだと知った。

 

昨年の今日。彼が十九歳という年齢を迎え入れた時から、すでに今日へのカウントダウンは始まっていた気がしている。

いつだったか、失いたくないものが増えていくほど我に返った時にそれが消えてしまう時を思って怖くなる。でもそれが大人になることであると思うと言っていた優斗くんに、ひどく焦燥感を抱いた。結局は、若さにかこつけた有限性以外を信じきれていなかった部分が大きかったように思う。けれど、今年の夏、EXシアターに立つ優斗くんに、”いままで”と”これから”を感じた時。好きになったときの新鮮な感覚と、これから好きにならざるを得ないだろうという強引な確信。夏を終えてからもそれはひかぬまま残り続けた。そして今日、日付が変わった朝、目を覚ました時。紛れもなく私はまだ青春のど真ん中に立っていた。二十歳になった髙橋優斗くんのことが、信じ難いほど好きだった。

 

 

優斗くんはとりわけ、夢を託されるのが上手だ。叶えさせてあげたいと思わせる。叶えてくれるだろうと無条件に信じさせられる。それはずっと、ずっとそうであった。だからこそ、こんなところまで丸腰で青春に巻き込まれてきた。夢はときめきでもあり、希望でもある。まるで移植される心臓の如く人々のきらめきを無意識に請け負って、然れども自分の魂に従順に輝く。

たくさんの人の幸せと夢、ときめきを司る優斗くんが、その預かった分に等しいだけ幸せにならないなんて有り得ない。

私の中のアイドルの定義は他でもなく、髙橋優斗くんの存在そのものにある。人好きのする笑顔で、琥珀色の双眸に灯す闘志で、ステージという名のマウンドを踏みしめるその両足で、辿り着けない場所なんてどこにもない。

 

 

二十回目のお誕生日、本当にほんとうにおめでとう。優斗くんの十代が最高になったのなら、それは他の誰でもない、優斗くんの功績だ。一年前の何気ないことばにしれっと満点のアンサーをたたき出す、そんな優斗くんなら、きっと二十代も、何歳になっても、自分の楽しいと感じることを全力でする優斗くんでいられるはずだ。

そんな優斗くんを。顔がかわいくてへんてこで、それから、生まれ変わっても自分でいたいと真っ直ぐに誓える優斗くんを好きになれて本当によかった。

わたしも、生まれ変わってもまたもう一度髙橋優斗くんのファンとして生きたい。

 

けれど、そのときがいつになるかはまだわからないから、だからひとまずは二十歳になった髙橋優斗くんの担当から始めよう。お誕生日おめでとう。これからもよろしくね。