優しい閃光

背番号2番、立ち位置は0番。わたしのいちばん

未確認特別

思い出だけじゃ生きていけないけれど、思い出があるから生きていける。殊更、アイドルに関しては。剣吞な報せや情勢のもとでうごいていたこの一年だからこそ特に意識していたというのもあるかもしれないが、基本的にはいつもそう信条づけてアイドルを追いかけている。

こうして時たま感情や心の動きを文章に落とし込んでいるのは、趣味から派生した本当にゆるい趣味のひとつでもあり、どちらかといえば記録といった側面の方が大きい。けれど、ほんのすこしだけ「そうさせられている」部分があることが否めなかったりする。そして、わたしの最愛のアイドル、髙橋優斗くんにはとりわけよく引き摺り出される。優斗くんを見ることと同じくらい優斗くんという陽に照らされてうまれるわたし自身の影に、そうか、自分はこういうかたちをしているのか、と省察することが好きだ。ファンとしての自分を己の中に持つ。彼は彼で、ステージ上やカメラの前で髙橋優斗というひとりのアイドルとして生きる。決して交わらない世界が彼の存在から始まり展開していくことが一文字のフィクションから始まるドラマのようで、何年彼を応援していても新鮮にときめく。

言葉を読む、書く、発する。誰もが当たり前に行う行為だからこそ教養や人柄が否応にもにじみ出る。わたしは優斗くんの発する言葉や紡ぐ文字列の優しさに羨望の眼差しをむけてしまうことが多々あって、それは内容についてもだけれど、人となりが透ける言葉というツールでまったく胡乱さが見えないというところに収斂する。説得力や訴求力を宿しながら、飾り立てない素直で優しい言葉に今まで何度だって感情を揺さぶられた。いつだってわたしには見えない世界が見えている優斗くんが大好きなのに、更にそれをふんわりとやわらかく伝えるうまさをもってるところも好きだからたまらない。やわらかいといえど、揺らぐことはなくて、かつ他人の考えを否定しない人間になりたいと毅然として言ってのける姿勢も好きだし、なにより尊敬している。憧れでもあるのだ。

つくづく見習う部分の多いひとだから、そんな憧憬にずるずる引きずられそうになることも多い。たとえば一挙手一投足に愛されてきたしるしが表出している事実とその副産物なんかに羨ましくなったりする。素でいたいと思えるのも、これまでに周囲からその素を愛してもらえてきたからこそなのだろう。

言葉というのはときに不透明で、無責任で、それ以上に雄弁だってわたしは知っているし教えてもらった。優斗くんの言葉をいつだって信頼しているし、それは優斗くん自身への信頼とイコールでつながっている(この場合の「優斗くん」には、すべて「アイドルの」の枕詞がつくのが前提だ。というか、わたしの発する「優斗くん」は常に省略形でもある)。言葉には想いと覚悟と度胸が乗る。司会業を筆頭にお喋りも、歌も、また、演技中の台詞でだって。言葉の使い手としての髙橋優斗くんに魅了される。明日を生きるための、思い出に刻まれる。

 

初回放送の日、散々わたしに違う世界の見え方を教えてくれた優斗くんが、ついに世界を変えた。放送後翌日、なにも変わらない空に現実、心臓だったけれど、まったく確実に、変わっていた。変わり始めた、というのが正しいだろうか。

今回の場合は毎週水曜日二十二時だったが、一週間に一度、最高の享楽が確約された時間が用意されることの幸福を改めて知った。アイドルを応援していると、しばしばこういった恩恵を受けることができる。アイドルのファンって、すごい。あほらしいけれど、毎回放送終了後、本気で感じていた。ほんとうに、毎週、毎週ぜったいにたのしかったから。 明朗快活なそのキャラクターは、毎週画面の中で仕事をしたり恋をしたりしていた。顔は世界一大好きな彼と一致しているのに別人で、ふと物語から意識が逸れた隙間に、ああ、仕事をしているな、と理解できた。数瞬の間で惚れ直し、コマーシャルが開ければまた楽しむ。一から十まで幸せな時間。ただ、最終回の某シーンでは、ドラマの最中にもかかわらず、物語中の八木原大輝の、またさらに中の、俳優 髙橋優斗くんに意識を当てざるを得なかった。目に水分の膜を張って、すこし湿った声で、まるで指輪をはめるときのように慎重に、愛おしく放ったあの台詞に、こういうこともできるんだと感嘆したし、何より誇らしく、ファンということを差し引いても純粋に感動できた。こうしてまたひとつ愛を捧ぐ対象が優斗くんからうみだされた。幸せになるんだよ、八木原大輝くん。

髪はもう、切ってしまっただろうか。彼に別れを告げたのだろうか。役と対面で向き合って、ゆっくりゆっくり知っていって、同化させて、成るひとなことにも未だにびっくりする。そういうことができるひとなんだなあ。燃やすエネルギーは多そうだけれど、なんにでもなれてしまうんじゃないか。素を愛し愛されてきた男の子が無限の可能性を手にしているなんて、夢よりも夢だ。自己世界の変革あるいは不変が結果として他者に作用し環境もかわっていくことはあるけれど、基本的には意識の働きかけを外界でなく内側に向けていることが多いようにおもっているので、そういうのもあるんだろうか。なんにせよすごいし、えらいとおもいます。というか、毎秒えらい。

強く色濃い光が隣近くにある場合に、反射鏡になれるような、襲いかかる強烈な光を跳ね返してはもっと熾烈にあるいは柔らかく性質を変えるようなはたらきかけをしている瞬間の優斗くんが好きで、彼の演技力はそういうところとも繋がっているのかな、と、考えたり。

第一話ですら不安や緊張でドキドキしなくなっていたことが、わたしの中でとうに優斗くんが立派ないち俳優だということを示している。もしかしたらそんなのは今更な話なのかもしれなくて、そこはわたしの過保護さだ。けれど、血が早く流れて、喉が詰まって、たのしくて、そういう感覚もまた一興であることは確かなので、どこか違う場面でもうすこしだけやらせてほしい。改めて、全十話と基づく数々の番宣お疲れ様でした。

 

八木原くんに会えていた期間、アイドルは比較的に、鏡写しであるな、ということをよく思惟していた。ステージやカメラは彼らに誠実で、逆転も然りで。彼らが向き合えば、彼らを彼ら足らしめる居場所もまた、真正面に映し出す。遮断され、触れられない世界へと閉じ込められる神聖さは、彼らを特別へと変える。それならば、わたしが本当にすきなのは鏡の前の姿なのか、鏡に写った姿なのかどっちなのだろうか。アイドル髙橋優斗くんへ愛を向けるわたしは、八木原大輝くんというキャラクターすら愛すことになった。向こう側では対面式のそれも、こちらからは裏表の一方通行で、邪推しかできない。しかしその邪推こそ、わたしがエンタメを啜る目的の一つで、趣味から派生した趣味だ。そしてこれは、その記録でもあり、また、「そうさせられている」もはらんでいる。

いつも言っている、分からないから好き、というのは、優斗くんのパーソナルそのものへ向けた言葉でもあるけれど、アイドル髙橋優斗くんの実態のことでもあって、だからこそ好きなのかもしれない。分かり合えないところ、分からないところ、ほんとうに大好きなのだ。「分からない」は、なんら理解の妨害や解釈の瑕疵にならないので、このままお互いにずっと頑固でいたいし、交わらず離れることなく、見えない世界を見る優斗くんをのんびり激しく追いかけて、ずっと生きていたい。

見上げるたびに違う顔をしていて、けれどいつも当たり前然としてそこにいてくれる空のようなひと。これを一生の仕事にするつもりがないのは理解しているし、覚悟もできている。だから、これからもやりたいようにやって走りたいとこ走っていてくれたら嬉しいし、その道筋の途中でわたしが幸せな時間を確約されるポイントがあれば儲けもんだ。いつか空がなくなってもその色が思い出せるように、今はまだわたしもなるべくたくさん上を向いていようとおもえる。

これからも愛おしき我が酔生夢死のために、勝手に拠り所のひとつとしていきます。

 

今日もまったく、かわいいぞ、このやろう!